第30章 【第二十六話】灯籠の湖
少女は筆を取った。
何度も呼吸を乱し、何度も目元を拭いながら、白い灯籠へゆっくりと母の名を書いていく。
最後の一画を書き終えた瞬間、少女の頬を大粒の涙が滑り落ちた。
「……書けたわね」
私が囁くと、少女は泣きながら頷いた。
ラビが無言のまま、舟に置かれていた小さな火種を差し出す。
私はそれを受け取り、少女と共に灯籠へ火を灯した。
白い紙の内側で、小さな橙色の炎が揺れる。
「……お母さん」
少女は、灯籠を両手で抱えたまま、水面へそっと置いた。
灯籠は小さな波紋を広げ、ゆっくりと母親の魂の方へ流れていく。
「私……まだ、全然大丈夫じゃない」
少女の声は、何度も途切れた。
「寂しいし……怖いし……ひとりになるの、嫌……」
母親の魂が、淡く揺れる。
少女は唇を噛み、溢れそうになる嗚咽を堪えながら、それでも声を絞り出した。
「でも……行ってらっしゃい」
その瞬間、母親の魂から、張り詰めていたものが静かにほどけたように見えた。
私は目を閉じる。
無意識に触れた喉元で、『ニルヴァーナ』が白銀の光を放った。
そして、歌い始める。
夜の湖へ、透き通る旋律が広がっていく。
それは、戦うための歌ではなかった。
帰る場所を見失った魂へ、静かに道を示す歌。
残された者の涙を否定せず、それでも別れの先へ進めるよう、そっと手を添える歌。
水面を流れていた灯籠の火が、一つ、また一つと白銀の光を帯び始める。
橙色と白銀の灯りが混ざり合い、湖の上へ細い道を作っていった。