第30章 【第二十六話】灯籠の湖
「……書けないの」
か細い声だった。
握られた筆先から、墨が一滴、真っ白な灯籠へ落ちる。
「書いたら……お母さんが、本当に死んじゃう気がする」
呼吸が、微かに止まった。
「お母さんが……?」
少女は小さく頷く。
「四日前に、亡くなったの。ずっと病気だった。でも、この前までは普通に話してたの。今夜は、お父さんの灯籠を一緒に流そうねって……」
少女は湖の方へ目を向けた。
「お父さんは、去年亡くなったから」
声が震える。
「だから今日は、お父さんを送る日だったのに……お母さんの名前まで、書かなくちゃいけないんだって」
胸の奥を、強く掴まれたように感じた。
父を送り出すはずだった夜に、母まで見送らなければならない。
私は、膝の上で震える少女の手へ視線を落とす。
「……無理に、今すぐ書かなくてもいいと思うわ」
少女が、驚いたようにこちらを見る。
「見送りたいって思えるまで、少しだけ……ここにいてもいい」
少女の瞳に、初めて涙が浮かんだ。
けれど、それが零れる前に、唇を噛んで堪えてしまう。
遠くで、低い鐘が鳴った。
町人達が静かに湖岸へ集まり始める。
灯籠流しが始まる合図なのだろう。
「ティファ」
背後から、ラビの声が落ちる。
振り向けば、湖岸では既に小舟の準備が始まっていた。
私は少女へ向き直る。
「私達も、あの社の近くへ行くの」
少女の瞳が、沈んだ鳥居へ向いた。
「……私も、行く」
小さな声だった。
けれど、灯籠を抱く手は、先ほどより少しだけ緩んでいた。