第28章 【幕間】神田/月影の楽園 後編
「その人……ずっと、誰かと喋ってたんだ」
か細い声。
「“置いていかない”って。“一緒に帰る”って、泣きながら笑ってて……」
少年は怯えたように路地裏の奥を指差す。
「でも、そこには誰もいなかった」
背筋が冷える。
死者を見せられたわけではない。
その人にとって、一番大切な誰か。
その声と姿を使って、死の方へ引きずり込まれたのだ。
「……その人に、家族は?」
私が尋ねると、ナジームが手元の記録を確認した。
「妻と幼い娘がいます。商いの用事で一人外へ出たきり、宿へ戻らなかったそうです」
灰の傍には、小さなロケットペンダントが転がっていた。
私は手袋越しにそれを拾い上げる。
蓋を開くと、内側には柔らかく笑う女性と、小さな女の子の肖像画が収められていた。
何度も開いて見ていたのだろう。
金具の縁は擦れ、肖像画の端も少しだけ色褪せている。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
帰る場所があった。
待っている人がいた。
それでも、彼は戻れなかった。
「……サフィアは、亡くした人への想いだけに入り込んでいるわけじゃない」
喉の奥で『ニルヴァーナ』が低く脈打つ。
「帰る場所を失いたくない心。大切な人を置いていきたくない心。そこへ入り込んで、死の方へ引き寄せている」
「……人の情に付け込んで殺すか。胸糞悪ぃ」
神田が低く吐き捨てた。
その声には、隠しようのない嫌悪が滲んでいた。
けれど、その横顔は、怒っているというより、何かを押し殺しているように見えた。