第3章 君の知らない名前
「……気にするな。お前が使えない部下だった覚えはねぇ」
嘘だ。
お前は俺の恋人だった。そう叫べれば、どれほど楽だっただろう。
だが、記憶を失った彼女に「俺たちは愛し合っていた」と突きつけることは、ただの傲慢であり、今の彼女を怯えさせるだけの脅迫になりかねない。
「そうですか……なら、良かったです」
ほっと胸をなでおろす彼女の横顔を、俺はじっと見つめる。
その時、彼女の細い首筋に、髪に隠れるようにして小さな傷跡が見えた。
以前、俺の部屋でじゃれ合っている時に、俺がつけた痕だ。
形としては残っているのに、それを刻んだ記憶は彼女の頭の中にだけ無い。
「……おい」
思わず、名前を呼びかけていた。軍の籍にある名字ではなく、夜の闇の中で何度も何度も睦み合いながら囁いた、彼女のファーストネームを。
「え? はい、なんでしょうか」
彼女が不思議そうに小首を傾げる。その瞬間、俺の喉は固く閉ざされた。
今、その名前を親しげに呼んだところで、彼女を戸惑わせるだけだ。
俺の愛は、今の彼女にとっては実体のない不気味な執着でしかない。