第3章 君の知らない名前
夜、書類の整理を口実に、俺は彼女を執務室へ呼び出した。
「兵長、お呼びでしょうか」
入ってきた彼女の顔には、やはり「上官の部屋に入る部下」の緊張感がある。
俺は何も言わず、いつも彼女が好きだった淹れ方の紅茶をローテーブルに置いた。
「座れ。……茶の淹れすぎだ。処分を頼む」
「あ、ありがとうございます……」
恐縮したようにソファの端へ腰掛け、カップを両手で包み込む彼女。
その指先が微かに震えているのを見て、胸の奥が焼けるように痛む。
かつては、このソファで俺の膝に頭を乗せて転がっていたガキが、今は触れることさえ躊躇う距離にいる。
「……兵長」
ふと、彼女がカップを見つめたまま呟いた。
「あの、私……不甲斐ないことに、兵長に関する記憶だけが思い出せなくて。何か、お仕事で重大なご迷惑をおかけしていたら、本当に申し訳ありません」
真っ直ぐに向けられた、濁りのない瞳。
謝罪の言葉。
俺を忘れたことを、彼女はただの業務上の不手際として申し訳ながっているのだ。
俺たちの間にあった情熱も、交わした約束も、彼女にとっては存在しない白紙だった。