第9章 澱の沈む夜に
――その時。
「ていうかさ」
イルミが唐突に言う。
「ニナなんかに侯爵夫人が務まるとは思えないんだけど」
「……え」
ニナは目を瞬かせた。
自分でも、公爵家でうまくやっていける自信があるわけではない。だからこそ余計なことは考えないように、目の前の仕事だけを必死にこなしてきた。
それを真正面から言葉にされると、痛いところを指で押されるような感覚だ。
「でも、私なりには……一生懸命やってます」
「ふーん」
イルミは興味があるのかないのか分からない声を出す。
「母さんが怖いの?」
「…………いえ」
ニナは咄嗟に否定した。だが声に力がない。
実際、キキョウ夫人が怖いというような、単純な話ではなかった。
もともとニナに断る選択肢などない。セルディア家の兄達の学費も、家の修理店が細々と続けられているのも、ゾルディック家の援助があってこそだ。
恩を受けて生きてきた以上、「嫌です」などと言える立場ではない。
イルミはその顔をじっと見ている。
「じゃあ、なんで公爵家に行くの?」
「それは……」
ニナはグラスを両手で握り締めた。
「私なりに、ゾルディックの養女としてけじめをつけたいだけです」
「けじめ……ね」
「これまで受けた恩を返さないと。私も、私の家族も……いつまでも甘えてばかりではいられないので」
「じゃあ、結婚は家族のためってこと?」
「……はい」
地下室へ小さな沈黙が落ちる。
イルミはしばらくニナを眺めていた。
本心を隠すようにグラスを握り締める指先を見て、ふと口角が動く。
「捨てられたくせに」
「…………」
ニナの肩が小さく揺れ表情が曇った。
酔いで熱くなっていた身体が、一気に冷えた気がした。