第5章 不協の兆し
「写譜……ですか?」
まるで今思い出したかのように、イルミが軽く付け加えた言葉にニナの胸はざわめいた。
「侯爵に献呈する清書だよ。丁寧に、誤りなく。急いで」
ニナは耳を疑った。
一瞬、言葉の意味が理解できない。
十数枚に及ぶ長大な曲。しかも清書。
「あの、イルミさん……それは……」
「できたら、この手紙を添えて、御者に持たせて。俺はこれから寝るから。任せたよ」
「ね、寝る……んですか?」
言葉が続かない。
言わなければいけないことがあるはずなのに、出てこない。
「そうだけど」
「い、いや、ちょっと……その」
「何? 昨日は徹夜で書いてて、丸二日寝てない。流石に限界」
言いながら軽く欠伸をひとつし、腕を伸ばす。その拍子に、きっちり収まっていたシャツの裾が僅かに解け、細い腰の線が覗いた。
さらりと前髪の影を落としたまま、すっかり気の抜けた横顔だ。
ニナはゴクリと息を呑みこみ目を泳がす。
「…………あの、家事がまだ途中で……少しだけ、奥様にお伝えしてきてもいいでしょうか? すぐに戻ります」
「構わないけど、早くして。ニナって本当そればかり……好きだよね家事。俺の仕事より大事なの?」
「はい……あ、いえっ、そんな……」
イルミの無防備さに、妙に調子が崩れる。
だが、次の瞬間その気配が消えた。
「ふざけてるの?」
ふっと緩みかけた息が、喉の奥で止まる。
手を頭の後ろに組んだまま、視線だけが鋭く落ちてくる。
「ニナ、俺に従ってよ」
「……」
ゆっくりと腕が下ろされる。
次の瞬間、一歩で距離が詰まった。
片手が腰に当てられ、逃げ場を塞ぐように見下ろされる。
「出来るね?」
「ご、五分で戻ります!」
「二分だ」