第3章 崩れゆく調律
徐々に音域が上昇し、トップノートに届こうとするが、声が揺れて微妙に音程がずれる。
「大丈夫だ。そのまま続けて」
イルミの指は止まらない。
ニナの未熟な声を優しく包み込んだかと思えば、容赦なく追い立てるように。
「あーー、……はぁ…、ぁーー」
声が掠れる。
息が続かない。
それでも、鍵盤の音は止まらない。
一音も揺らがず、正確に、先へ進んでいく。
「喉じゃなくて、もっと下で支えて。そこ、もう一段上がるはずだ」
言っていることは、わかる。
けれど——
体が、ついてこない。
か細い悲鳴のような声がピアノの音に溶けて消える。
「ニナ、もっと歌って」
(……声が)
音に追いつけない。
置いていかれる。
「……この声なら、もっと細やかに繋ぐ方がいいか。ここから、もう一度」
イルミの声は変わらない。
ピアノも、止まらない。
ニナの胸に、悔しさと無力感が広がる。
「…………息が苦しくて……」
明らかに限界を超えている。
普通なら、ここで切るはずだった。
けれど——
「……続けて」
「……はぁ、……ぁ……」
イルミは止めなかった。
鍵盤から目を離さないまま、ニナの呼吸の乱れの隙間に低く声を落とす。
「もう一度。ニナ……諦めないで」
ピアノの旋律が、再び鼓膜を優しく振るわせ、しかし同時にニナの内部から強引に声を引きずり出す。
「あーー、は……はぁ……」
疲労で集中力が散漫になり、息のコントロールが効かない。
昨夜の睡眠不足が一気にのしかかってきた。
ニナの視界が一瞬、ぐらりと揺れた。
「もう一度」
鍵盤の音が、再び鳴る。
ニナの声が高域で途切れる。
と、その裂け目を縫うように、イルミの指が音を差し込んだ。
フィルの音が繋いで、途切れて終わりのはずの音楽が引き延ばされていく。
支えられているのか、追い詰められているのか。
ニナにはもはや判別できない。パラパラと音の粒に突かれ、身体の奥が勝手にその続きを探してしまう。
鍵盤が鳴る。
絞り出した息が合っているのか、外れているのかわからない。
ただ、止めた瞬間に何かが途切れる気がして切なくて声を、繋いだ。
「……ぁ、……」
わずかに震えたその声は泣いていた。
それでも、音は離れなかった。