第3章 崩れゆく調律
鍵盤を再び鳴らす。
ニナの声が高域に差し掛かり途切れた。
——浅い
そう判断した瞬間、イルミの指は次の和音を選んでいた。
崩れた音程の支点を下げて、声が乗り直せる位置へと滑らせる。
意図したわけではないが、調べが転がる。
ニナが息を吸う。
不安定な呼吸。支えも甘い。
それでも——
次の音に、ふわりと乗せてきた。
イルミの視線は楽譜に落ちたまま、指だけがその揺れに合わせて強弱を変える。
その音が、どこまで保つかを見るために。
「まだ出るだろ」
声をかける。
反応は鈍い。
限界に近いのか。
イルミは一瞬だけ、次の和音の選択を遅らせた。
「……ぁあーー」
不完全なはずのその声が、予想していた位置に、触れている。
そのまま、拾う。
無意識に鳴らした音が、ニナの声の揺れを受け止める形になる。
「……続けて」
歌うことを拒むような事を言いながらもその口から出てくる声は必死に絡みついてくる。
完成に向かう調和を崩し、音色を変えて、またどこかへ向かっていく歌声。
そのたびに、イルミの指はわずかに和音を変えた。
ただ、最適な形を選んでいるだけ。
——それなのに。
「……ぁ、……」
ほとんど泣き声に近いその音が、鍵盤の上に落ちるイルミの指を引く。
イルミは、わずかに眉を寄せた。
(……おかしいな)
形式はとうに破綻している。
終止に持っていくのは、いつでも出来た。
出来る筈なのに。
音を制御できないことなどある筈がないのに。