第1章 【直哉×働き者女中】
逃げるように屋敷を飛び出したその足に、下駄の鼻緒が食い込んで痛んだ。
けれど、胸の奥を掻きむしるような痛みと比べれば、そんなものは無に等しかった。
「結局、私は何だったんだろう…」
町へ出たは、直哉から与えられた高価な着物を質に入れ、どこにでもいる女の子が着るような服を買った。
ジーパンと長袖のトップスに袖を通した瞬間、かつての自分を取り戻したような安堵と、二度とあの日々には戻れないという絶望が、交互に押し寄せてくる。
安いホテルの、狭くて薄暗い部屋。
直哉の隣にいた時の贅沢な静寂とは違う、壁越しに他人の生活音が聞こえるその部屋で、は膝を抱えて横になった。
直哉は、私が苦しい時には側にいてくれた。
けれど、彼が本当に苦しい時、私はその視界に入る価値さえない「異物」でしかなかった。
他の女中たちは、どんなに嫌味を言われようと、手には確かな役割がある。
私には、何もない。
彼が私に与えたのは、愛情という名の「暇(いとま)」だった。
「……人形だったのよね、私は」
ぽつりと、乾いた声が漏れた。
彼は、自分が持て余している愛情を、ただ一方的に叩きつけられる対象を欲していただけなのだ。
弱くて、自分の言いなりになって、ただ美しく飾られて微笑むだけの人形。
中身が自分である必要なんて、本当はなかったのかもしれない。
少しばかり見た目が整っていて、彼が「特別扱い」をすることに酔いしれるための、都合の良い器。
(私のことが好きなんじゃない。私を可愛がっている『自分』が好きだっただけ)
そう思うと、頬を染めたあの夜も、甘い菓子の味も、すべてが虚構のように感じられた。
直哉は今頃、いなくなった人形を忘れて、新しい何かを見つけているだろうか。
窓の外では、京の町がいつも通りに動いている。
人々は働き、汗を流し、誰かの役に立って生きている。
は、自分の震える両手を見つめた。
薬香で滑らかになった指先が、ひどく恨めしい。
(働かなきゃ…。私は、私のために……)
直哉の手中にいた時間は、まるで長い、長い熱病のようだった。
愛されることの甘さを知ってしまった体で、もう一度、名もなき「誰か」として生き直せるのか。
重い瞼を閉じると、暗闇の中に、あの鋭くて甘い直哉の瞳が浮かんだ。