第3章 ジムにて
「どうしよう。何も持ってないよ⋯⋯」
「――何の話? どうしたの名無しちゃん。俺にも教えて」
洗面台に手をついてうなだれていると、後ろからヴィクトルがやって来た。
いきなりほっぺたにちゅっとキスをされ、あなたの肩が跳ねる。
「ひゃぁっ」
「あ。ごめん。くすぐったい?」
彼は申し訳なさそうに笑い、あなたの頬を指でいじってくる。
スキンシップは今まで通りだから、余計に混乱した。
でも驚いたのは、ヴィクトルの服装もだ。いつものかっちり決まったスーツではなく、今日はスポーティで体の線が浮き出るTシャツと黒のハーフパンツを履いている。
靴はランニングシューズで、爽やかさと逞しさが合わさった姿に見とれた。
「わあ格好いい⋯⋯ヴィクトルってなんでも似合うねえ、スタイルよくって」
「そう? 君に褒められるのは嬉しいな。もっと鍛えないとな。そうだ、名無しちゃんも一緒に行く? ジム」
瞳を細め誘われてあなたはドキリとした。
彼の言うジムとは、このホテルの宿泊者が自由に使えるトレーニング施設だ。
ヴィクトルは週に何度か利用しているという。
きっと日々の努力でこんな筋肉質でスリムな肉体を保っているのだろうと納得する。
「うん。じゃあ私も使わせてもらおうかな。せっかくだもんね。運動あんまり得意じゃないけど」
「本当に? そんなふうに見えないよ。すっごく綺麗な体だし」
「ええ! 恥ずかしいよそんなの」
過剰に反応し赤くなったあなたは、そそくさと服をトレーニング用に着替えた。
アパートから荷物を持ってきてよかったと思った。
ーーー
そのあと、二人で上階のジムに行った。
一面の窓の眺めは、青空に高層ビルが連なり壮観である。午前中から人も多く集まっていた。
「うわ、こんなとこ初めて。浮いてないかな、私」
あなたがランニングマシーンで走ろうと準備していると、斜め後ろからヴィクトルが顎に手を当てて見ていた。
「俺はやっぱり君のポニーテールが好きだな。すごく可愛いよ名無しちゃん」
「⋯⋯ちょっ、外で何言ってるのっ? 聞こえるよ!」
あなたは小声でわめき、またヴィクトルに楽しそうに笑われた。
でもそのおかげで、周りはビジネスマンぽい外国人やらストイックに訓練してる人々に溢れていても、うまく緊張がほぐれた。