第44章 おいでとさぼり
紅海の母、小瑠璃が亡くなったのは、彼女が一歳になる前だった
呪霊によるものだった
まだ何も分からないほど幼い紅海を庇って、小瑠璃は命を落とした
それから父親は、一人で娘を育てようとしたが
働きながら幼い子供を育てることは、決して簡単なことではなかった
だから時折、浅葱のもとへ相談に来ていた
「……また大きくなったねぇ」
浅葱が紅海の頬を撫でる
紅海は父親の腕の中から、浅葱の顔をじっと見ていた
お父さんが時々会いに連れてくる人
そして、その隣にいるのが――
「千草」
「ん?」
浅葱に呼ばれて、青年が顔を上げる
「この子、また少し重くなったんじゃないかい?」
ちょっと、抱っこしてみるか?」
「……いや、いい」
「なんでだよ…まぁ、お前はまだ子供を抱くのが下手だからね」
「ひどいな」
そんなやり取りを、紅海はぼんやり眺めていた
千草のことも知っている
名前を呼ばれているのを何度も聞いた
だから彼女にとって二人は、知らない大人ではなかった
母親のことだけは、ほとんど知らなかった
母はどんな人だったのか
どんな声だったのか
自分をどう抱いていたのか
紅海には分からない
ただ、父が時々、母の小瑠璃の話をしていた
「お母さんは、紅海のことをすごく心配してたんだ」
そう言われるたび、紅海は意味も分からず父の顔を見る
母という人が、自分を心配していたと言うことは、なんとなく分かった
そして、その父も…ある日、亡くなった
その日、父親は紅海の手を強く握っていた
「紅海、こっちへおいで」
『……うん』
紅海には生まれた頃から呪霊が見えていた
だから、それがそこにいること自体は珍しくなかったが
今日のそれは、違った
父親が紅海を抱き寄せる
「大丈夫だよ」
その声が聞こえた
次の瞬間
黒い影が、目の前を覆った
「――っ!」
紅海には何が起きたのか分からなかった
ただ、父親の腕が強く自分を抱きしめてくれた
身体が大きく揺れ…そして
「……紅海」
耳元で、自分の名前を呼ぶ声