第8章 ボクシング・デー
相手にも聞こえているだろうに敵意は消えない。
むき出しのコンクリートを手の平で辿る。凹凸に手がかかると部屋が明るくなる。
相手が顔を確認したのと同時に、腕が落ちる。
かろうじて引っかかっていた銃が、その手を離れた。
助走のつけようもない。滑り込んで床につく前に回収できたのは事前に動きを読んでいたからに過ぎない。
レバーを引けば、安全装置はかかったままだった。
「危ないわね」
「どっちが?」
「どっちも」
「アンタだってわかってた。安全装置はかけたままだ。危ないことなんてないだろ、と」
不機嫌そうなレノがふいっと顔を背ける。
見えなくなった頬と額には、白い湿布。背中に見える包帯が体を覆っている。足にはめられたギプスが彼がそれ以上動けないことを示していた。
「レノ。寝るときはゴーグルは外した方がいいわ」
「っせえよ。いつも外してるだろうが」
言ったそばからレノが頭に手をやって赤い髪をかき乱す。
間を置いて、アグレイスも所在なく二の腕をさする。”いつも”が何を指しているかに思い至ったのだ。
「そうそう、そういえばお腹空いてない?」
少し高い声で話題を変えて、ポケットから取り出したのは、レーション。
すっと彼に差し出しかけて、手を止めた。
会社支給の--任務の食べ残りを見舞いの品にする是非は言うまでもない。
差し出したレーションの向こうから、レノの感情のない視線が彼女に向いていた。
さすがにバツが悪くなったアグレイスが手を引っ込める。
だがそれより早く、彼がその手から掠め取った。
使えない片手に代わって噛みついた口は、力任せに歯でパウチを破る。よほど腹が空いていたのか豪快な動きは四角いブロックにも及んだ。
もそもそと嫌そうな顔で咀嚼して、飲み込みも半分に再び口が開く。
「水」
その様をまじまじと眺めていたアグレイスは、意識を取り戻したかのように飛び跳ねた。
レノが顎で部屋の奥を示す。
アグレイスはのそりと立ち上がると、逆らうことなく、それに従う。
冷蔵庫の下段は綺麗に積まれた酒瓶。戸の裏のポケットには、比較的長持ちしそうな調味料が詰まっていた。
長期で家を留守にする以上、生物は置けない。アグレイスも同じようなものだ。