第3章 薄氷の恋【沖田総司】
扉が閉まると、部屋にふっと静けさが降りる。
さっきまで近くにいた温度が消えて、急に息苦しくなる。
「……菫ちゃん」
呼んでも、もちろん返事はない。
ただ胸の奥が、じわりと熱くなった。
僕は手拭いを握りしめ、咳をごまかすように唇を噛む。
どうしてこんなときに限って、弱ってしまうんだろう。
もっと強ければ。
もっと、そばにいられたのに。
外からかすかに、菫ちゃんの草履の音が遠ざかっていく。
その律動が、妙に心を落ち着かせた。
「……早く帰って来てね、菫ちゃん」
小さくつぶやく。
まるで子どものように。
不安はいつも、病より先に心を蝕んでいく。
でも――彼女が名前を呼んでくれた朝も、散歩した昼も、背中をさすってくれる晩も、全部が僕の中で灯のように光っていた。
菫ちゃんとの明日を、信じたい。
それだけが、僕を支えていた。
彼女の足音がこの家に戻ってくるまで、僕はただ静かに、その灯を守るように目を閉じた。
――――
菫ちゃんが茶葉を買いに出てから、どれくらい経っただろう。
普段なら、短い散歩にも似た距離だ。
なのに——
障子の向こうは、ずっと静かだった。
僕は縁側にもたれ、耳を澄ませる。
庭を抜ける風の音ばかりが、妙に大きく聞こえた。
「……遅いな」
呟く声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
病のせいじゃない。
胸のどこかがきゅっと締めつけられている。
待つ時間がこんなにも長く感じられるなんて。
もう一度、咳をこらえて起き上がる。
少し無理をしただけで肺が軋む。
けれど、じっとなんてしていられなかった。
どうして帰ってこないんだ。
どこかで倒れた?
誰かに呼び止められた?
それとも——。
「嫌だな、こういうの」
不吉な想像ばかりが浮かんでしまう。
菫ちゃんは、いつも丁寧で、約束を守る娘だ。
“すぐ戻ります”と言った彼女が、理由もなく遅れるはずがない。
胸の奥がざわざわと波立つ。
「……菫ちゃん」
呼んでも返事はない。
玄関の戸は開く気配もなく、外から聞こえるはずの草履の音もいつまで経っても聞こえない。
どうしてだ。
何度目かも分からない問いが胸に刺さる。
まるで、あの穏やかだった日々に、初めて黒い影が落ちたような——。
そんな嫌な予感だけが、静けさの中で形になり始めていた。