第2章 宵の華【土方歳三】
それから数日、島原へ足を運ぶことを避けた。
会えば情が揺らぐ。情が揺らげば、命取りになる。
それが分かっていた。
けれど、筆を取っても、墨の滲みが楓の名に変わる。
盃を傾ければ、香りの向こうから彼女の声がする。
「あなたとなら、酒も悪くないですね」
――あの声が、耳の奥で何度も響いた。
夜が更けるほどに、胸の奥で何かが疼いた。
恐れとも、恋慕とも違う。ただ、言葉にならない焦燥。
何かが崩れていく気がした。
そして決めた。
――明日、会いに行こう。
これで最後にする。それだけ伝えて、終わりにしよう。
そう言い聞かせながらも、胸の奥では別の声が囁いていた。
翌夜、空は曇っていた。
街の灯が霞み、風に雨の匂いが混じっていた。
島原の門をくぐると、三味線の音が遠くから流れてくる。
懐かしい旋律だった。
何度この音を聞きながら、彼女の横顔を見つめただろうか。
店の戸口を開けると女将が驚いたように息を呑み、すぐに頭を下げた。
「……楓なら、奥でお待ちです」
待っている――その言葉が胸に刺さる。
まるで、来ることが分かっていたかのように。
奥の座敷。
障子の向こうで灯がひとつ、静かに揺れていた。
楓は膝をつき、薄い着物の袖を整えていた。
顔を上げた彼女は微笑んだ。
「お久しぶりですね」
その声は穏やかで、けれど少し掠れていた。
「忙しくしていた」
「ええ、そうでしょうね」
互いに、それ以上は言わなかった。
楓は徳利を手に取り、盃に酒を注いだ。
「最近は……物騒な話をよく耳にします」
「何のことだ」
「長州の方々が、このお店に火をつけようとしているとか」
その声は淡々としていたが、瞳の奥には怯えがあった。
「私のせいなのです」
そう言ったとき、楓はわずかに笑った。
沈黙が落ちた。
風が障子を鳴らし、灯の火が揺れる。
「――でも、これで安心しました」
「何がだ」
「あなたの顔を、もう一度見られましたから」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
「……何を言っている」
「大丈夫です。心配はいりません」
そう言って、彼女はもう一度、笑った。
その笑顔が、どこか遠く感じた。
今にも風に溶けてしまいそうなほど儚かった。
何か言おうとした。だが、声が出なかった。
ただ静かに、彼女の横顔を見つめていた。
――それが、最後だった。
