第2章 宵の華【土方歳三】
「そいつは何者だ」
俺の声はいつになく低かった。床を刀の背でなぞるようにして、音が細く伸びる。
「まだ名までは掴めておりません。ですが、スガメの男だと。攘夷派にそんな男がひとり――“久坂の影”と呼ばれていた浪士がいます」
「……スガメか」
蝋燭の灯が細く揺れ、山崎の影が障子に長く伸びる。
俺は腕を組み、深く息を吐いた。
「楓は……そのことを知っているのか」
「それが分からぬのです。ですが、もし再び繋がっているとすれば――」
「新撰組にとって、敵になる」
短く吐いたその言葉に、山崎は無言で頷いた。
沈黙が落ちた。
外では風が強くなり、障子の端がかすかに鳴る。
遠くから犬の吠える声がひとつ、夜を裂いた。
島原の座敷で見た楓の顔が脳裏に浮かぶ。
酌をしながら、ふと目が合ったときの柔らかい眼差し。
あの眼が、何かを隠していたというのか。
いや、そんなはずは――そう思いながらも、理屈では否定しきれない。
かつて幾人もの裏切りを見てきた。
笑顔の裏に刃を忍ばせた者たちを、数え切れぬほど見送ってきた。
血と疑念の中で生き延びてきた男にとって、信じるという行為ほど危ういものはない。
それでも、楓だけは違うと思っていた。
あの女の前では、いつの間にか鎧が緩む。
言葉の裏を読もうとする自分が、少しずつ消えていった。
山崎に楓の見張りを任せようとしたが、やめた。
「俺のことは俺がなんとかする」――そう口にしたとき、山崎は何も言わなかった。
ただ、短く頭を下げ、静かに去っていった。
山崎には、俺の迷いが見透かされていたのだろう。
人を信じることにも、信じられることにも慣れていない。
そんな俺が、娘ひとりの心を量ろうとしている。滑稽な話だった。
それでも、彼女を他人に見張らせることだけは、どうしてもできなかった。
足音が遠ざかると、部屋には再び灯の揺らぎだけが残った。
風が障子を押し、灯がかすかに震える。
胸の奥で、熱いものと冷たいものがせめぎ合う。
理性が楓を疑えと囁き、心がそれを拒む。
信じたい気持ちと、裏切られる恐れ。
その狭間で、俺の心中は穏やかではなかった。
外では風が吹き荒れ、夜はますます深まっていく。
酔いが醒めていくような、醒め切らぬままに苦く残るような――そんな、終わりの見えぬ長い夜だった。