第2章 宵の華【土方歳三】
娘は怯えたように目を伏せ、やがて小さく息を吐いた。
観念したように、静かな声で言う。
「……奥の座敷で、少しお待ちくださいませ」
その言葉を残し、娘はそっと手を引いた。
灯りの明かりが、揺れながら遠ざかる。
廊下に残ったのは、夜の静けさと、掌に残る温もりだけだった。
座敷の畳をぼんやりとした月明かりが照らしていた。
娘の気配はまだない。
俺は胡坐をかき、月を眺めた。
胸の奥が妙にざわついていた。
ほどなくして、襖の向こうから足音がした。
「お待たせいたしました」
娘は行灯を手に、静かに頭を下げる。
灯が彼女の頬を撫で、片方の瞳だけが淡く光を宿している。
「無理を言ったな」
そう言うと、楓は小さく首を振った。
「いいえ。これも仕事のうちです」
盆を置き、静かに膝をつく。
指先が盃を取り、袖口がかすかに揺れた。
とく、とく、と。
盃に注がれる酒の音が、静寂を切り裂く。
香りがふわりと立ち上り、夜気と混ざって広がった。
「ここで働いて長いのか」
「三年ほどになります」
「まだ若いだろう」
「天涯孤独の身ですので、ここしか行く場所がなかったんです」
淡々とした声。
だが、どこか痛みが滲んでいた。
酒を注ぎ終えた楓は、盃を差し出した。
指が一瞬、俺の手に触れる。
氷のように冷たい。
「人が怖いのか」
思わず口をついて出た言葉だった。
楓の動きが止まる。
「……噂を、お聞きになったのですね」
「少しな」
楓は初めて微笑んだ。
「裏切られるのは、二度とごめんです。あの時に、片目も信じる心も一緒に失くしました」
「……それでも、まだ人のために働いている」
「それしか、できませんから」
その言葉に、なぜか胸が詰まった。
俺も、刀を取る以外の生き方を知らない。
誰かを斬り、誰かを守り、命を懸けて秩序を保つ。
――だが、その先に何が残るのか。
「飲め」
盃を差し出すと、楓はわずかに目を見開いた。
「私は……」
「いい。今だけでいい」
躊躇いのあと、楓は盃を受け取った。
唇が、酒に触れる。
その一瞬、光が盃の中で揺れた。
「……苦いですね」
「戦の後の酒は、いつもそんな味がする」
「戦、ですか」
「命を懸ける場所だ。斬らなきゃ、斬られる」
楓は黙って盃を見つめた。
やがて、小さく言う。