第2章 宵の華【土方歳三】
「片目が見えへんのです。昔、将来を約束してた相手がおったんですが――毒を盛られてしもうて」
「毒?」
思わず眉をひそめると、芸妓は小さく頷いた。
「命は取り留めましたけど、そのせいで片方の目が……」
盃の中の酒が、静かに揺れる。
「信じとった人に裏切られてしもうて、人が怖くなったんどす。せやから、誰にも媚びへんし、笑いもせえへん。誰も寄せつけようとせんのです」
芸妓の言葉が、妙に胸の奥に残った。
さっき見た娘の、どこか遠くを見つめるような瞳が、ふと脳裏をかすめる。
あの無表情の奥に、どれほどの痛みが沈んでいたのか。
人を信じることを失った娘。
そして、己の信念にすがるしかない俺。
――似た者同士かもしれんな。
思わず苦笑して、盃を傾けた。
夜も更け、座敷の喧噪がようやく収まった。
原田や新八、平助はすっかり酔い潰れ、畳のの上で無防備に寝息を立てている。
湯気の残る徳利と、散らばった盃。
酒と汗の匂いが染みついた空気の中で、俺は静かに腰を上げた。
「もう帰るんですか、土方さん?」
総司が笑いを含んだ声で言う。
「あぁ、もう十分だ。総司と斎藤は寝てるそいつらを連れて帰れ」
「はーい」
「御意」
二人の返事を背に受け、障子を開ける。
夜気が流れ込み、頬を撫でた。
冷たい風が体をなぞり、胸の奥に沈んでいた熱を少しだけ鎮めていく。
虫の声が遠く、細く響いていた。
ふと、廊下の端で灯りが揺れた。
小さな行灯を手に、誰かが静かに歩いている。
――楓だ。
誰にも気づかれないように動くその姿は、夜の闇に溶けるように儚い。
「まだ働いているのか」
声をかけると、娘は驚いたように立ち止まった。
振り返った顔が、灯の光に照らされる。
片方の瞳が光を捉えず、もう片方が真っすぐに俺を見た。
「片付けが残っておりまして……失礼します」
淡々とした声。
俺に目も合わせず、通り過ぎようとする。
「待て」
自然と口が動いた。
自分でも、なぜ引き止めたのか分からなかった。
娘は小さく肩を震わせた。
沈黙の中で、行灯の炎が揺れ、二人の影が壁に映る。
「……お前に、酌をして欲しい」
娘は息を呑み、わずかに首を振る。
「少しの間だけでいい。二人で話せねぇか」
歩み寄り、腕を掴む。
逃げようとする力も、震えも感じた。