第9章 嗜血
畳の上に据えられた机は、余計なものが一切なく整然としていた。硯にはまだ湿った墨が残り、横に置かれた筆からは淡い墨の香りが漂っている。
紙の匂いと混じり合い、部屋全体を張り詰めたような静けさで包んでいた。障子越しに射す朝の光は斜めに差し込み、机に積まれた文書を白々と照らしている。
霧島は正座を崩さず、背筋を強張らせて土方と向き合っていた。
土方は片膝を崩し、霧島を見据えた。
その眼差しは揺らぎなく、何もかもを射抜くように冷静だった。
「……で、さっきの話の続きだ」
沈黙を破った声は低く、重い。
霧島は無意識に唾を飲み込んだ。
「端的に言う。平助は――羅刹になった」
「羅刹……?」
思わず問い返すが、自分の声がかすれているのに気づく。
土方は視線を逸らさず、淡々と続けた。
「新選組が秘密裡に進めている実験だ。幹部と雪村しか知らねえ。……お前を信用して話すが、ほかの隊士に口を滑らせたら、その時はお前を始末せざるを得ない」
その言葉に、霧島の背に冷たい汗が伝った。
重い口止め。
だが、それ以上に耳に残ったのは「実験」という響きだった。
「……承知しました」
かろうじて答えたが、心のざわめきは収まらない。
土方の口から語られたのは、あまりにも現実離れした事実だった。
――変若水(おちみず)。
その薬を飲めば、肉体は劇的に強化され、傷の治りは驚くほど早まり、常人では及ばぬ速さと力を得る。だが、代償はあまりに大きい。
日の光に身をさらし続ければ肉体には負担がかかる。そして、耐え難い血への渇望が周期的に襲う。
発作のように、理性を食い破りながら――。
「つまり……平助は、もう人としての道を戻れねえってことだ」
土方の言葉は静かだったが、部屋の空気をさらに沈めた。
霧島は息を呑む。胸の奥がずしりと重くなる。
藤堂平助――快活で、誰よりも仲間思いだった男の笑顔が脳裏に浮かぶ。その彼が、今は血を求め、理性を失いかけている。
「そんな……」
声にならない声が漏れる。信じたくなかった。
もう以前の平助ではないのだと突きつけられる現実に、霧島は息苦しさを覚えた。
土方はしばらく黙して霧島を見ていた。
その視線には冷徹さだけでなく、僅かながら悼むような色が宿っていた。