第9章 嗜血
霧島は廊下を歩きながら、包帯を巻いた手首を胸元に抱えた。
すでに屯所は朝の活気に満ちていた。
隊士たちが行き来する気配があり、あちこちで笑い声や雑談が聞こえた。
そんな日常の音に囲まれても、霧島の胸の奥では先ほどの光景がまだ生々しく疼いていた。
血の匂い、赤い瞳、食い込む牙――そのすべてが皮膚に残り、幻のように甦る。
角を曲がったところで、背後から足音が近づいてくる。
霧島が立ち止まると、袴の裾が目に入った。
「……霧島か」
現れたのは土方だった。
朝の光を受けた横顔は、もう一日の指揮をとる覚悟を決めた顔だ。
「腕……どうした?」
鋭い視線が霧島の包帯に落ちる。
霧島は一瞬言葉を探したが、喉がひくりと鳴っただけだった。
その沈黙が、すでに答えになっていた。
「……平助か」
低く落ちた声が、心臓を直に打ったようだった。
霧島は小さく息を呑み、やがてうなずいた。
「……はい。目を覚ました時、取り乱して……」
言葉が途切れ、霧島は俯いた。
どう説明すればいいかわからなかった。
赤い目、白い髪、獣のような咆哮――どれも現実感がなく、口に出すのが怖かった。
土方はしばし霧島を見下ろしていたが、深く息を吐いた。
「そうか……やっぱりな」
その声には、怒りではなく、静かな覚悟が宿っていた。
「……申し訳ありません。止められなくて……」
霧島は頭を下げた。
自分が襲われた側なのに、なぜか謝ることしかできなかった。
「頭を上げろ。お前が悪いわけじゃねえ」
土方は低く言い、霧島の肩に手を置いた。
その手は重いが、確かな温かさがあった。
「お前が無事でよかった。それが一番だ」
霧島が顔を上げると、土方の目は真剣だった。
「……藤堂さんは、どうなったんですか」
気づけば問いが口をついていた。
土方は短く視線を伏せ、答えを飲み込む。
そして踵を返し、廊下の先を顎で示した。
「霧島。お前に話しておきたいことがある。来い」
庭先からは、稽古を終えた隊士たちの笑い声が響いてくる。
霧島は、黙って土方の背中を追った。