第5章 池田屋
斎藤は座布団を引き寄せ、霧島の傍に腰を下ろした。
手の甲についた血はすでに乾きかけていたが、まだ鉄の匂いが残っている。それでも拭おうとはしなかった。
今この場を離れれば、霧島が遠ざかってしまうような気がしたのだ。
刀を膝の横に置き、静かに息を整える。
外では朝の気配が近づいていた。
廊下の向こうから、井戸水を汲む桶の音が規則正しく響く。
遠くで鶏が鳴き、空気がわずかに色づき始める。
京では、何事もなかったかのように日常が始まる。
霧島の手が、かすかに動いた気がして、斎藤は思わず顔を上げた。
呼吸も止めるようにして、霧島の顔を覗き込んだ。
しかしそのまぶたは、まだ閉じられたままだ。
それでも、生きている――。
その事実だけで胸の奥に重く沈んでいたものが少しだけ軽くなる。
「……もう少し、眠っていろ」
思わず口から零れた言葉は、いつもの無愛想さよりも柔らかかった。
誰に聞かせるでもないその声は、自分自身を落ち着かせるためのものだった。
斎藤は小さく笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。
座ったままでは、余計なことを考えてしまいそうだった。
霧島の寝顔を見ていると、不思議と胸の奥がざわつく。
この場に留まれば、目覚めを待つことしかできない。
考えるべきことは他にもあるはずだ。
池田屋の後始末、残党の行方、土方への報告――。
頭の中にやるべき事が次々と浮かぶが、霧島の寝顔が視界の端に残り、どうしても意識がそちらへ引き戻される。
霧島の方に目を向ける。
小さな寝息が座敷に響き、まるで時が止まったようだ。
(……目を覚ましたとき、何から話すべきか)
叱るべきか、労うべきか。
それとも――
斎藤は自分の思考に苦笑した。
考えても仕方がない。まずは無事に目を覚ますことが先だ。
刀を手に取り、音を立てぬように居室を出る。
障子を閉める前、もう一度だけ霧島の寝顔を振り返った。
一瞬、言葉にしがたい安堵が胸を満たす。
廊下に出ると、冷えた朝の空気が頬を打った。
斎藤はその冷たさで気を引き締め、足を踏み出す。
屯所はすでにざわつき始めていたが、彼の耳にはまだ霧島の静かな寝息が残っていた。