第3章 砂時計は返された
「……ずっと昔」
「え?」
「もうずっと昔、ここよりずっとクソみてぇなところにいた時だった」
口内から、クッキーの屑が跡形もなく消える。あれだけ紅茶で潤ったはずの喉が、痛いほどに渇く。
「こんな風に母さんと紅茶を飲んだことがあったよ。そこの空気が腐ってると気づいちまうくらいに優雅な姿でな」
風が吹いて、唯一枝に止まっていた常磐色の葉が飛んだ。それは、はらりはらりと枯れ葉の山の上に舞い降りる。おれはまた、息を呑んで彼を見つめていた。その彼が見つめていたのは、恐らく、遠い追憶。
重く濁った世界の中の、優しく温かな記憶。それが、彼の瞳の淡い青に集約していた。
───書かねば。書かねばならない。
おれは椅子を蹴って家の中に飛び込んだ。初めて彼に会ったときと同じように、どうしようもない激情に駆られて、為す術無く。
途中、積んでいた本の山に身体をぶつけた。数年分の埃が舞って、気管を通る。
原稿用紙のゴミの束を掻き分けて、ペンを手にした。
彼の求むる彩りは、きっと────
「……?」
原稿用紙に文字を書いたのは、紛れもない血液だった。少し咳き込んだだけ、のはずだった。
……は、と言おうとして声が出ない。
耳に圧を伴って響くのは、無情なまでにぼたぼたと粘ついた液体の滴る音。掌を広げてみれば、そこには鮮血がどろり。
「おい。急に走り出すんじゃねぇ」
つかつかと、彼の足音が聞こえる。あれほど渇望していた彼の近づきすら頭の向こうに追いやられてしまうほどの衝撃に、おれは動くことができなかった。
「……は? 」
おれの出すことのできなかった声を、兵士長殿が代弁した。
「血か? お前、吐血してんのか? 」
兵士長殿が、血相を変えておれの顔を覗き込んだ。
血を拭うと、そこはもうすでに乾燥し始めていた。ならばもう原稿用紙が汚れる心配はあるまい。洗う手間が省けてよかった。