第1章 流れる砂に彩りを
もう一度人混みに埋もれるのは勇気がいったが、仕方あるまい。少々息を止め一歩後ろに下がったそのとき、力強く地面を踏みしめ一歩を踏み出した足がひとつ。
土に汚れたブーツだったが、それは今日見た中で一番の美しい色だった。吸い寄せられるようにして、目を上げる。マントの深緑は憂いを帯び重々しい。それでいて「自由の翼」と呼ばれる背の刺繍は秋空の巻雲の如く軽やかに、その歩みに倣って揺れていた。
おれは息を呑んでその姿を見つめていた。もはや、悪態など耳に入らぬほどに。そのブーツの主の引き結ばれた唇からは、何の言い訳をこぼす気配を見せなかった。
さらり、さらりと黒髪が揺れている。
髪から覗いた瞳の、なんと鋭いことか。矢のような眼光に、知らぬ間に身体に纏っていたヴェールが引き裂かれた。再び耳に罵声が響く。
それでも彼は、前を向いていた。
その姿におれの心臓は握り潰されて、抗いようのない欲望が滴り落ちてきたのである。
嘲罵に囲まれ、真紅も青緑も見ることが叶わない、泥水を進むような人生。
そんな者に彩りを見せてやりたい。
露店に並ぶ果物のみずみずしさを、道端に咲く小さく鮮やかな花々を。葉が四葉であるだけで有頂天になるようなささやかな喜びを。
原稿用紙に形作られた黒い斑点は、乾ききっておらず、指でなぞれば原稿用紙上を走った。それは、おれの心臓からこぼれ落ちた欲望のように見えた。
「……おれは、お前のことが書きたい」
「……は? 」
今度は、おれの言葉が拾い上げられる番だった。
突然走り出した支援者を放っておくわけにはいかなかったのだろう。兵士長殿が、書斎の入り口に背を預け、おれを見つめては呆れ返ったように眉をひそめてみせた。
顔を上げる。凛々しい瞳を見つめる。
「おれは、お前を書きたい」
兵士長殿は、怪訝そうな顔で俺の頭からつま先までを一瞥した。まるで、憑き物がついていないか確認するみたいに。
「気でも狂ったか。俺はモデルなんぞになりにきたんじゃねぇ、資金の話を──」
兵士長殿の声が聞こえる。低く喉奥を震わせるような声音が、おれの指先を操るようだった。
そうして、まっさらな原稿用紙に書きなぐる。
血に塗れた世界を、おれが彩りたいと思った──と。