第1章 流れる砂に彩りを
忘れてはならない。この目に、脳に焼き付いた衝撃を。雷に打たれたような衝動に、おれはティータイムを放り出して書斎に走っていた。踏みしめた床から埃が舞う。
体当たりするかの如く書斎の戸を開けて、ペンを手に取った。手が震える。浸しすぎたインクが原稿用紙に歪な斑点を描く。
──これは、ある男の秘められた悲劇である。
違う。
──強い意思に隠された悲壮を紡ごう。
違う。
──人類最強を暴く覚悟はあるか。
違う。
おれは、あのひとの何を書きたいと願った?
原稿用紙を投げ捨てて、ぐしゃりと髪を握る。引っ張られた髪が手繰り寄せた記憶は、血の匂いがしていた。
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ある日の帰り道のことだった。情景描写に行き詰まって、馬車での帰りを断り、トロスト区の中を歩いていた。大通りに並ぶ商店には、それぞれ野菜や果物が籠に入れられ、とりどりの真紅や鮮やかな青緑が陽の光にきらきらと輝いていた。それなのに、その色彩に目を暮れる者は誰一人としていなかった。何故か。税金泥棒に野次を飛ばすことに必死になっていたからだ。
哀れだ。そう思った。土地を失い、太刀打ちのできぬ巨体に支配される恐怖に怯え、困窮のさなか搾り取られた税金は死にばかり注ぎ込まれる。矛先が調査兵団に向くのは仕方がないことに思われる。
──それでも。
こんなにも美しい彩りをなおざりに、罵声を浴びせることばかりをしている住民どもに、少しばかりの幻滅を覚えた。だから、おれは見てやろうと思ったのだ。平然と怒声を浴びせるおまえらの顔の何と醜いことかと、嘲笑してやろうと思ったわけだ。
人混みをかきわけ、どうにか調査兵団の帰還の列を囲う最前列にまでたどり着く。人の密集したむさ苦しい空気が、おれの肺の中で膨らんで咳を誘った。
馬の足音。荷馬車の引かれる音。時折聞こえるうめき声。耳をつんざく罵声。
そのどれもがおれをうんざりさせた。もう帰ろう。おれは人間の醜態なんぞ描きたいわけではない。
真紅のドレスを夢見ながら色褪せた白緑のシャツしか纏えぬ少女。いちじくと葉野菜を食卓に並べ笑い合う恋人。
あの露店に並んだ色彩を見るだけで、おれはじゅうぶんだったのだ。