第10章 初恋の有名人
雨上がりの住宅街。
傘を閉じたタイミングですれ違ったその人に、わたしは思わず足を止めた。
──えっ……うそ。
一瞬で、鼓動がどくんと跳ねた。
帽子を目深にかぶって、マスクをしていても、わたしには分かった。
ずっと好きだった。
どんな時も、わたしを励ましてくれた存在。
でも、言葉なんて出てこなくて、ただ立ち尽くしてしまった。
すると、彼はわたしに気づいて、小さくため息をついたあと、マスクを少しだけ下ろした。
「……バレてるっぽいな。声、かけるタイプ?」
「ご、ごめんなさいっ」
「ああ、別にいいよ。叫ばなかっただけマシ。……そんなに見つめんなって」
彼は気まぐれか、時間に余裕があったようで、近くで少し座って話をすることができた。
わたしはふわふわと信じられない気持ちのまま、でも言葉は勝手にこぼれていた。
「わたし……あなたのこと、ずっと好きでした」
告白なんてするつもりじゃなかった。
でも、もう後戻りできなかった。
「……付き合えないよ、そんな簡単に」
そう言って苦笑する横顔が信じられないくらい格好よくて、思わず目が奪われる。
「でも、せっかくだし……
少しくらいは、報われたってことにしとく?」
そう言って、ゆっくりと近づいてくる彼の顔。
目を閉じる間もなく、唇にやわらかな感触が触れる。
優しくて、でもふわっと消えてしまいそうな、刹那のキスだった。
唇が離れたあと、彼は帽子のつばを下げて、背を向けた。
「……これで我慢して。俺も、忘れないから」
最後にそう言った声が、少しだけ震えていたのは、わたしの願望かもしれない。
立ち尽くしたまま、まだドキドキしている胸に手を当てる。
さっきまで遠い存在だった人の唇が、まだ残っていた。
fin.