第12章 ずっとそばにいた執事
広い応接間に、かすかな花の香りが漂っている。
わたしは、緊張で震える手を押さえながら、彼を見つめていた。
いつも完璧で、そばにいることが当たり前だった。
わたしが笑えば微笑み、泣けば黙ってハンカチを差し出してくれた。
……それなのに、今日。
「ご婚約、おめでとうございます」
彼は深々と頭を下げたまま、顔を上げようとしなかった。
わたしは椅子から立ち上がり、絨毯の上をゆっくりと歩いて、彼の目の前に立った。
「わたし……あの人と結婚したくない」
震える声に、彼の眉がわずかに動いた。
「……好きな人がいるの。
ずっとずっと……あなたが、好きだったの」
ようやく、彼は顔を上げた。
その瞳は揺れていて、でも奥に決意の色があった。
「お嬢様」
「お願い……名前で呼んで」
「……様」
その一言だけで、胸がぎゅっと締めつけられた。
「わたし、あなたがいなきゃ生きていけない」
「わたしは、執事です」
彼はそう言いながらも、手を伸ばして、そっとわたしの頬に触れた。
「あなたに、触れてはいけない立場の人間なんです」
「それでも、いい。今だけでいいから――」
その瞬間、彼は何かを振り払うように、わたしを引き寄せた。
そして、強く、深く、唇が重なる。
いつも丁寧な所作の彼とは思えないほど、熱くて、苦しくて……まるで何かを封じ込めるようなキスだった。
「……忘れてください。……これは、なかったことに」
そう囁いて、彼はすっと身を引いた。
「私は……明日、屋敷を辞めます」
「……いや……嫌……!」
「あなたが幸せになることが……私の、最後の務めです」
静かに頭を下げたあと、彼は背を向け、わたしの前から去っていった。
絨毯に残った余韻と、まだ消えない唇の感触だけが、わたしの全てを支配していた。
fin.