第3章 第一章幕 天女編
夜は深く静まり返り、闇が濃密に辺りを包んでいた。朝日の気配すらまだ遠いその時刻、蓮はひとりタソガレドキ城を静かに後にした。まだ明け切らぬ空は墨を流したように暗く、湿り気を帯びた夜霧がまるで彼女の心を包み込むように纏わりついている。彼女の足取りは重く、けれど迷いはなかった。月明かりも乏しい闇の中を、彼女は影のように密やかに進んだ。忍びの城を抜け出すことは容易なことではない。しかし、彼女は気配を殺し、足音を忍ばせ、周囲の眠りを妨げぬよう慎重に道を選んで進んだ。彼女が目指す先は忍術学園である。そこに、自らが行かねばならないという確かな使命感があった。だが、本心では……本当は、ずっとタソガレドキ城に留まりたかった。城に住む人々は蓮に優しく、まるで壊れやすい宝物を扱うかのように慈しみ、温かく護ってくれたのだ。そんな彼らの愛情に応えたいと願う気持ちは痛いほど胸にあった。だが、彼女がここにいる限り忍術学園に迷惑をかけ続けることになる。それを蓮は許すことができなかった。笹田真波の存在を知ったあの瞬間から、彼女の心にはひとつの決意が芽生えていたのだ。これ以上誰かが傷つくことを、蓮は望まなかった。朝日がようやく高く昇り始めた頃、諸泉尊奈門はいつものように蓮の部屋の襖の前に立ち、軽く叩いた。
「蓮、起きているか?」
しかし、応答はない。普段なら静かに襖が開き、蓮が穏やかに顔を出すはずだった。尊奈門は眉を僅かにひそめ、異様な胸騒ぎを覚える。いつもなら確かに感じられるはずの気配が、部屋の中からまるで消えている。
「……蓮?」
もう一度、慎重に声をかけるが、やはり沈黙が返るばかりである。不安に駆られ、尊奈門は襖を開いた。そしてその瞬間、彼は目を見張った。部屋はもぬけの殻であった。窓から差し込む朝の光だけが部屋の中を虚しく照らし、文机の上には綺麗に畳まれた手紙が一枚置かれていた。蓮の筆跡だ。尊奈門の心臓は激しく打ち始め、呼吸が苦しくなるのを感じた。
「……っ!」
勢いよく手紙を掴み取り、尊奈門は即座に雑渡昆奈門の元へと駆け出した。