第3章 第一章幕 天女編
夜の帳が、ゆっくりと世界を包み込んでいた。空に浮かぶ満月は薄く雲を纏いながらも、淡い光を惜しげもなく地上に注ぎ、あたりを優しく照らし出している。月明かりが差し込む縁側は青白く静謐で、周囲の木々がそよぐたびに、かすかな葉擦れの音が響いては消え、夜の静けさをいっそう際立たせた。縁側に座る蓮の肩には、ひんやりとした夜風がそっと触れては通り過ぎてゆく。その風は穏やかでありながら、どこか物憂げな気配をまとい、彼女の髪を柔らかく揺らした。蓮の長く艶やかな髪は、月光に照らされ、青紫色のグラデーションが淡く煌めいている。その静かな横顔は、まるで月の女神のように神秘的で美しく、儚げな印象を周囲に与えていた。庭園の樹木が静かにざわめき、木々の葉擦れの音が耳に届く。かすかな虫の音がときおり途切れ途切れに響き、そのたびに夜の静寂が一層引き立てられていた。蓮は静かな瞳を空に向けていたが、その心の内は複雑に揺れていた。彼女の胸の奥底に絡みつくように残っているのは、先ほど黄昏甚兵衛が口にしたあの言葉だった。『笹田真波』その名に、蓮はまるで心当たりがなかった。けれど、その名前を聞いた瞬間、心のどこかが微かに波立ったのを感じた。まるで過去に失った何かが、不意に蘇ろうとしているかのように。その小さな胸騒ぎが彼女を落ち着かなくさせていた。蓮はここ最近、城内で耳にする噂や囁きを頻繁に拾っていた。その鋭敏な聴覚は、意図せずとも人々が小声で交わす会話を鮮明に捉えてしまう。そのため、自身がこの城でどれほど頻繁に話題に上がり、城の人間たちの心をどれほど掻き乱しているかを知っていた。彼女の周囲にいる雑兵たちや高位の忍びたちは、決して本人の前でその話題を持ち出さない。まるで大切な秘密を隠すように言葉を伏せるが、蓮は全てを理解していた。雑談や噂話の端々に漏れる、ひそやかな感情……それは愛慕や執着という甘美で危険な響きを帯びていた。彼女はそんな彼らの心情を理解しながらも、抗う術を持たなかった。ただ静かに、それを受け止め続けているだけだった。蓮は視線を月に向けたまま、小さくため息をつく。どこか儚げで透明感のある彼女の姿は、月の光に溶け込み、この世のものではないほど美しく映った。だが、その内心では複雑な感情が静かに絡まり合い、彼女自身を追い詰めている。
