第1章 それでも君は、【太宰治】
「太宰、それ。其のナイフ貸してよ」
口の端に垂れた唾液も拭わぬままに
宵朝は手を出した。
理由も尋ねないうちに
宵朝の手には短刀が握られていた。
私が握らせたのか、
彼女が取ったのかは分からないほどに
指の疼きに浸ってしまう。
右手にナイフを持ち、
左手は先刻私がそうして見せたように
私の前に翳し、
薬指に傷をつけた。
「っ何しているんだ宵朝!」
「何って。私を愛してくれる?」
こんな奇行だなんて言ったが
宵朝がすればそれは
神聖な儀式へと成り代わる。
私の双眸を捕らえたまま、
私の口元に手を差し伸べる宵朝。
「勿論だとも。幾らでも飲むさ」
その細く小さな指を口に含む。
血の味など、
しないように思えた。
どんなに上等な酒も
この液体には叶わないのだろうな。
今まで味わった何よりも
魅力的な味がする。
喉を通す度に
頭が痺れるような感覚になる。
ずっとこれだけを、
摂り込みたい。
この体内に、
宵朝の成分が巡っているという事実に
体が震えそうになった。
「太宰、美味しいの?」
また口が歪む。
それを誤魔化すかのように
空いている左手で、
まだ血と宵朝の唾液がついた左手で、
彼女の頭を撫でる。
「もう、血止まってるんじゃない?」
その言葉に、
我に返る。
確かに血は止まっていた。
だが、もう少しだけ。
「宵朝、少し痛いかもしれないけれど」
返事を待たずに、
もう一度指を咥える。
傷口を舌で探し歯をあて、
甘噛みをする。
再び液体が流れ出し、
痺れる味が口内に広がった。