第1章 吉兆を告げる白梅
「あ、あにうえ」
父の帰りを待ち、まだ幼い弟と二人、居間で過ごしていた杏寿郎は、熱心に読んでいた書物から顔を上げた。
「ん?どうした、千寿郎」
目の前にちょこん、と座って玩具で遊んでいる弟は、遊びの手を止めて兄を見つめていた。
「お腹が減ったか?千寿郎、蜜柑を剥いてあげる」
「みかんは、いらないでしゅ」
まだ可愛らしい言葉使いになる小さな弟の頭を撫でて、杏寿郎は微笑んだ。
窓の外はすっかり暮れている。
「そうか!ではどうした? 」
千寿郎は、覚えたての言葉で、一生懸命に兄に伝えようとする。
「お、おちちうえは、おかえりになりますか。せんは…おちちうえに、あいたいです」
まだ三つの千寿郎なりに、父を心配しているのだろう。杏寿郎も幼い時からそうだったので、千寿郎の気持ちがよく分かった。
「千、おいで。父上がお帰りになるまで抱っこしてあげよう」
千寿郎は杏寿郎のおひざに、ちょこん、と座る。
小さな弟の身体を抱きしめて、杏寿郎は可愛らしい千寿郎の頬に自分の頬をすり寄せた。
「お父上は立派にお役目を果たして帰って来てくださるよ。今日あった事をお話しになるかもしれないから、楽しみに待っていようね」
「はい!あにうえ」
「お腹が空いたなぁ」
杏寿郎は千寿郎の柔らかな手を触りながら呟いた。ぷっくりとした小さなおまんじゅうのような千寿郎の手。杏寿郎の手もまだ小さいが、杏寿郎のは日々の鍛錬で手の皮が厚くなりかけている。
今日も、父の居ない間竹刀を振った。千寿郎も兄の真似をしていた。
もうそろそろ夕食の時間だ。
お台所から夕食の良い香りが漂っている。お味噌汁のお出汁の匂い。今日のおかずの、ふろふき大根に添える柚子味噌の良い香りも感じられる。鰤の照り焼きも楽しみだった。
手伝いをしに来てくれる人が、夕飯を用意してくれている。三人で食事をしながら、今日の話を聞くことができるかもしれない。