第8章 ※ 誰を愛していたとしても…。
唇が離れ、ひなたの頭はぽーっとしたまま、瞳は潤んでいた。
「………………」
一秒…そしてまた一秒…。杏寿郎もひなたも無言で、見つめ合った。
今、杏寿郎によって与えられた蜜のようなキス。それがひなたの頭を甘い誘惑の想いで一杯にしていた。
杏寿郎にしてもそうで、ひなたと交わした口付けの、甘すぎる余韻の中に引きずり込まれてしまいそうだった。
言葉なく見つめ合っている。夏の夜の風が二人の間を通った。
「………いい、よ」
「…む? 」
ひなたが小さな声でモゴモゴと言った為、杏寿郎は聞き取れず顔を近づけた。
「…煉獄さんなら、いいよ」
頬を赤らめつつ、ひなたはうっとりと呟いた。今のキスの続きがしたい。それを伝えられるのは、今のこの雰囲気だから言えた。
「私の部屋…いこ」
さくらんぼのような唇が色っぽい。杏寿郎を見つめる大きな瞳も美しく、杏寿郎は妖精に口説かれているような気持ちになった。
「…駄目だろう。それは」
見つめ合ったまま、杏寿郎は答えた。言いながらも胸が苦しかった。
「もう寝よう。ひなた、悪かった」
立ちあがろうとした杏寿郎に、ひなたは悲しげな声で尋ねる。
「…なんで…? 」
ひなたの目には涙が溜まっていた。
「彼女がいるから?だから今のは、今のキスは間違いって思ったの?…」
悲しそうなひなたに、何と言えば良いのか杏寿郎本人にさえ分からなかった。
「悪かった。今、瞬間的に君にも恋人がいる事を忘れてしまった」
体格の良い杏寿郎と向かい合って、見上げるひなたの目線の先に杏寿郎の胸元が見えた。少しはだけた浴衣。
若い肌が滑らかで、触れたいと思ってしまうのだ。
煉獄さんの事が好き…恋人の不死川さんの事も好きだけど…。
「…好きなんだもん…煉獄さんが…」
「…ひなた…」
この前、訓練の時に泣いていたひなたの涙の訳を、杏寿郎は理解した。
だが、今の杏寿郎にはひなたを抱きしめる事はできなかった。
ただの可愛い継子ではなくなって、目の前にいるのが一人の女の子だったから。