第32章 歪んだ愛で抱かれる 中編
「どういうこと?」
皆に愛されて、いるだけで周りを明るくするアイドルのような存在
そんないつもの彼と、目の前にいる苦悩に顔を歪めた彼は別人に見えた。
「名無し様は、俺のこと何者だと思ってる?」
「…信長様の…小姓だよね」
「…俺も時々、本気でそう思ってたよ。本当はね、信長様を探ってた間者で、忍びなんだ。奇襲を仕掛けた第三勢力の仲間だよ」
(間者…?スパイってこと…?)
「う…」
嘘でしょ?
そう言いかけたが、名無しの中で点と点が線で繋がっていく。
軍神・上杉謙信直属の優秀な忍びである佐助と同じように、蘭丸も簡単に城に忍びこんですぐに造りを把握し、名無しの部屋にあらわれた。
天井裏から音もなく飛び降りたり、逆に一瞬で飛び上がったり、一度に何本もクナイを投げて大木を倒したり、名無しを肩に担いで長い距離を走ったり…。
ただの小姓にしては身体能力が高すぎる。
それに、今の彼が纏っている黒一色の装束を見たとき、まるで忍びみたいだと感じていた。
腑に落ちたような名無しの表情を見て、蘭丸は自嘲的な笑みを浮かべる。
「俺の本当の主は、本願寺法主、顕如様だ」
「!!顕如って…!」
「信長様の暗殺を目論む首謀者だよ。本能寺では、すんでのところで君に邪魔された」
名無しの顔がみるみる青ざめていく。
(敵…だったなんて…まさか…そんなこと思いもしなかった)
「邪魔されたけど…同時に俺は救われた。あの時は本当にありがとう」
理解がまったく追いつかず混乱する名無しに、蘭丸は淡々と説明し始める。
「俺は戦で親をなくした孤児だったんだ。ある日、お腹が空いてたまらなくて寺の桃を盗もうとしたら、ひとりの若い僧侶に見つかった。どんな罰を受けるのか、って震えてたら、その人は俺の頭を撫でて桃をくれたんだ。『お食べ』って優しく笑ってね。それが顕如様。その桃は甘くて美味しくて、それから顕如様の優しさが嬉しくて、食べながら涙が止まらなかった」
「桃…」
以前に蘭丸が桃をくれたときの『一番大好きで特別な果物』という言葉を、名無しは思い出していた。