第32章 歪んだ愛で抱かれる 中編
その姿を見ると名無しはひゅっと心臓が縮み上がったような心地で倒れそうになる。
「も…申し訳ありません。早く帰ってきてしまって…」
不貞への後ろめたさから夫の顔をまともに見ることができない。
「謝ることなどない。俺もちょうど帰って来られたんだ。交戦中だった敵方の動きが鈍り、昨日、とうとう川名の領地から撤退していった。何らかの策の可能性もあるから油断はできないが、監視を残してこちらも引き上げてきた。兵はかなり疲弊しているからな」
泰俊は名無しの様子など全く意に介さず喋り続ける。
「それで、名無しはなぜこんなに早く戻ってきた?せっかくの里帰りで、積もる話もあっただろうに」
「……それは…」
返事に困り、うろたえる名無し。
「ただ…早く帰りたくなったのです。安土城に着いた時に、私の帰る場所はもうここではないと実感しました。川名家の居心地がよいのです。泰俊様、お義父さま、お義母さま、姫様たちが恋しくなり、わがままを言って帰ってきました」
誤魔化そうと咄嗟に口をついて出たのは、不自然極まりない嘘。
焦りから妙に早口になってペラペラと喋ってしまう。
それでも、
「そうか。それなら良かった。名無しが川名家にそんなにも馴染んでくれているのなら、何よりだ」
泰俊は満面の笑みで頷き、名無しはひとまずホッとした。
秀吉が言っていたように彼は実直。
それは、あくまで良く言えば。
悪く言えば子どものように単純だった。
武はすぐれており、豪胆で裏表のないさっぱりとした気質で人当たりもいいが、どこか思慮が浅く言葉の表面しか理解しようとしない。
いつも機嫌がよく優しく接してくれるけれど、姑や義妹の日常的な名無しへの心理的攻撃を目の当たりにしても庇ってくれることはなかった。
それどころか、彼女たちの一見柔らかく微笑みながら言う遠回しな嫌味を、それが嫌味だと気づかないようで悪気なく同調して、名無しがさらに傷つくこともある。
ぎょろりとした二つの大きな目は、決して名無しの心の中までは見てくれない。
そんな彼の、人の心の機微への疎さを寂しく思っていたが、今は逆にありがたかった。