第30章 五色の夜 春日山城編5 【信玄】
「出血などは無いようだが…本当に大丈夫なのか?」
眉をきゅっと寄せ、心配を通り越して苦しそうな表情でたずねるハルに私は頷き、懐から信玄さまがくれた小さな本を取り出す。
刀がかすめたことによって裏表紙から抉られていた。
「おかげで全く無傷です」
ありがとう信玄さま、助けられました。
本が傷ついてしまってごめんなさい。
ハルは私と本を交互に見つめてから、
「良かった…」
ほっとした様子で天を仰ぐ。
「ごめんなさい。私のせいでお館様に怒られて」
あのとき、とっさにハルの前に飛び出して城主と向かい合った瞬間にわかった。
刀を振り上げていたのはただの威嚇。
本当に斬るつもりなんてなかった。
それがわからず飛び出してしまったせいで、無傷だったものの心配したハルが私を連れてその場から去り、城主を余計に怒らせた。
怒鳴り散らす声がまだ耳に残ってる。
ただでさえ親子の折り合いは良くない感じだったのに、さらに関係が悪化してしまうかも…。
「ありがとう。俺をかばおうとしてくれて」
「でも余計なことをして、もっと怒らせてしまった…」
「父上はいつもあの感じだ。俺のやることなすこと全て気に食わない。だから気にするな。それにしても驚いた。何と命知らずな。無傷だったから良いものの、もうあのようなことはするな。どうか命を無駄にするな」
「はい…」
私、ホント駄目だ…。
また冷静になれずに失敗してしまった。
へこみながらうつむき、私を守ってくれた本の抉られた部分を指でなぞる。
「その本は?」
「私の尊敬する人がくれたんです」
本を手渡すとハルは頁をめくって一気に目を輝かせた。
「これは、孫子の兵法の!」
「はい。抜粋して書いてくれて」
「すごいな…!!俺が特に感銘を受けた言葉ばかりだ!」
なんかものすごく食いついてる。
「好きなんですか?」
「ああ、子どもの頃からずっと読んでいるが、読むたびに学びや発見があって奥が深い。戦の指南書であり、理想とする生き方の道しるべでもある」
あれ、信玄さまも同じようなことを言ってた。
「兵は勝つことを貴び、久しきを貴ばず」
ハルが弾むような声で読み上げた格言は、兼続さんに教わったことがある。
戦は勝つことが大事で、長期戦は避けた方がいいという教え。