第2章 ~天下人とて人なれば~
<一>
夜深く、夜長は信長の帰りを待ちながらも睡魔に負けていた。
張り出し廊下から涼しい晩夏の涼しい風が吹き込んでくる。
少し肌寒いけれど新鮮な外の空気が心地いい。
天守の奥まった場所に置いた文机に頭を乗せて眠りかけていた夜長はふと意識が完全に沈みそうになった。
その時、大きな手が触れる。
頭をひと撫でし、夜長が薄く目を開けると信長の顔が間近にあった。
瞳孔の縁が赤みがかった、圧力と熱量を湛える目だ。
「貴様はまだ自分が誰の物かという自覚が足りんようだな」
いつになく不機嫌な声と、尊大な表情で信長が言う。
夜長は頭を持ち上げて、「帰った」という挨拶も無しに自分の頬を撫でる熱い手に心地が良くなる。
けれど、信長の声音は不機嫌だ。
寝惚けた頭で今しがた言われた言葉を思い出すが真意が分からない。
まじまじと見つめていると、信長の表情の中に拗ねた子供の様なあどけなさも僅かに見受けられるのに気付く。
不機嫌ではあるが、怒っているのとも違うらしい。
「それだ」
長い指が夜長の左手を指した。
夜長の人差し指に白い包帯が巻かれていて、夜長は「そういうことか」と腑に落ちる。
昼間、反物屋で新しく仕入れた夜の羽織に仕立てる為の布を鋏で裁っている時に怪我をしたのだ。
思いのほかしっかりしとした生地で、鋏の扱いに力んでしまった。
僅かに生地の上で鋏の方向を滑らせて、抑えていた左手の指先を切ってしまったのだった。
傷自体は深くないが、指先だったせいで酷く出血した。
針子仲間達が大慌てで手当てしようとした時に、丁度顔を出した秀吉が応急処置をして、その後に家康が改めて手当てをし直し、塗り薬と包帯を多めに用意してくれた。
湯浴みの際も気を付けて入り、新しい包帯を巻き終え、もう深夜という頃に信長が視察から帰ったのだ。