第1章 ~移ろいやすく、移ろいがたく~
帰城したのは日が落ちる手前だった。
空は茜色から菫色に変わり、夜長も城中が騒がしくなったことで信長の帰りを知った。
予定では日が落ちる前には戻ると聴いていた為、何かあったのかと案じていたところだ。
日暮れ時に、書類を運びに天主へ訪れた秀吉が夜長の僅かに不安な表情を見て「気まぐれに行動される方だ。あまり遅くなるなら早馬で報せて下さるだろうから心配するな」と、安心させるように気楽に言ってくれた。
長く側近をしている秀吉が心配していない事で夜長も安堵したが、それでもやはり気は晴れなかった。
道中で何か事故があったのかもしれない、奇襲があったのかもしれないと、あまり良い方向には考えられないのだ。
気を紛らわせるように、仕立てている途中の絽を縫い続けていた。
品のある浅黄色を見つめていると少しは気持ちが落ち着く。
城の騒めきに不穏な物が無いのが人々の声音で分かりホッとした。
針を軽く生地に刺して留め、平籠に置く。
緊張していたらしい身体を心持ちほぐす様に深呼吸し、出迎えに行こうと立ち上がったが、聞き慣れた足音が近づいて来るのを聞いて自然と笑みが零れた。
「帰った」
襖を開けた信長は出かけた時と変わらず、普段通りの尊大で余裕のある笑みを向けて言う。
今ではこの傲慢さに安心するのが自分でも可笑しいけれど、夜長には何よりも溺れさせられる笑みだ。
「お帰りなさいませ。お疲れ様です」
歩み寄ると軽く抱き寄せられ、「予定より遅くなったな」と額に口づけが落ちた。
低い声はやや甘く、髪をひと撫でされるだけで身体が緩む。
「ご無事でしたら良いんです」
広い背に腕を回して身を寄せる。
「一つ用事が増えて遅くなった」
「増えたんですか?」
信長の声に不安要素は無いが、思わず見上げる。
見下ろしてくる目は何か愉快そうだが予想もつかない。
ただ、瞳孔の縁が赤みがかった意志の強い目に見入る。
「ああ。貴様の機嫌取りだ」
冗談めかして言う信長に首を傾げつつ、「不機嫌になどなってませんが」と言う。
そんな夜長に信長は小さく声を立てて笑った。
「そんな事は分かっている。貴様の機嫌を良くしてやろうと思っただけだ」
身体を離して襖の外に声を掛ける。
家臣に行李を二つ運び入れさせ、下がらせた。