第10章 冬、めぐる狐日和のなかで
いま 自分は 何を見ているのか
無音の世界に放り出されたようだ。
さっきまで、河川敷で話していた少女を気にしていられなくなってしまった。
辺りは眼鏡を掛け忘れた時のように、ぼんやりとすべてが滲んで見える。なのに。
"誰かが居る"事だけは、混乱していても分かった。
だから"誰か"に向かって、私は手をおそるおそる伸ばそうとしたんだ。
年老いて幽霊になってまでいるこんな自分にいったい何が起こっているのかを知りたかったから。
"私……英尚さんとこうやってゆっくりお茶を飲める時間が出来たこと、やっぱり幸せだなって思います。"
耳に心地よく響く声を聞いたとき、見えずにいた視界は、音の波紋が広がるように鮮明になっていった。
秋の夕暮れ刻のような、紅く橙く柔らかい景色と、縁側。
若いーー知らない女性だ。
こちらに柔らかい笑顔をみせてくれていて。
聞こえた言葉と同じように本当に嬉しいんだと、目の前の人の気持ちも伝わって。
知らないはず、なんだ。
目の前で微笑む貴女のことは。
知らない………のに。
どうしてか、堪らなくなる。
自分も嬉しいと、この時間を大切にしたいと思う気持ちが溢れる。
知りたい。
知らなければいけない。
でなければ、この涙の理由に、潰れるくらい苦しい気持ちに、説明がつかない。
震える指を握りしめて、涙を拭って、言葉を発する。
上手く回らない舌で、低い声で辿々しくても、噛んでもいい。
隠さず伝えたい--貴女には。
"私も、嬉しいと思うよ。
今の老いた私は、空っぽであるから、貴女を大切だと思う気持ちがあっても、理由が分からないんです。
だからこそ、貴女をちゃんと知って-ー貴女の心に、私も応える為の時間を頂きたいのです。"
ふわりと笑った貴女の顔で、緊張が少し緩んだ。
''………わかりました。
7年待てたんです。幾らでも待ちますよ。“
“ありがとう……“
飲み干したお茶は、ただただ温かいものだった。