第1章 手に取ったのは
私の顔の前を鋭い爪が横切る。
「八重っ怪我してないな?!」
降ろされてから聞かれ、黙って何度も頷く。椿はほっとした表情を浮かべたと思ったら直ぐに眉をきっと吊り上げ鞘から刀を抜いて振り返る。私も自分を襲ったものはなんなのだと、椿の睨む方に目を向けた。竹藪の奥でよく見えない、四つ這いの影。私の目の前をかすったのは、見間違えていなければ人の指…だった。爪は異常に長かったけれど。一体何なのだろう?これが、母さんの手紙に書いてあった鬼、なのだろうか。
「ヴゥゥ…」
獣に似たうめき声が聞こえる。こちらの様子を伺っているらしい。
「…八重、立てるな?」
「うん…」
「じゃあ合図したら走れ、俺もあとから追うから」
「でも、」
じっと、刀を構えて影を睨みながら椿が訊く。一緒に行こう、と言いたかったのに、
「できるな?」
遮るように、ひとつの答えしかゆるさないように言われてしまえば、もうどうしようもない。向こう側を刺激しないように、ゆっくり立ち上がる。わかった、と返事をすると、椿は一歩踏み出して。
「行け!」
合図と共に影へ向かって走り出した。私も反対方向へと駆け出す。呼吸が使えればもっと早く走れるのかもしれない。でも今の私は、とても落ち着いて呼吸なんてしてられなくて。椿は大丈夫なんだろうかとつい、振り返ってしまった。
「えっ…」
目を疑い足が止まってしまう。薮の中から飛び出してきた姿は、春子姉さんによく似ていた。でもあの優しい、穏やかな顔はしていない。飢えた狼のように獲物にどう食らいつこうかと目をギラギラさせていた。椿の一挙一動、呼吸ひとつの隙も見逃さずに襲いかかる。椿はなんとかそれに反応して避けて、跳ね返して。防ぐので精一杯に見えたのだが違う。椿も戸惑っているのだ。春子姉さんの姿をしているのに、動きは獣のようだから。これが鬼…?じゃあ春子姉さんは鬼だったの?それならいつだって私たちのことを襲うことは出来たはずだ。それをしなかったのは?何一つ答えの出ない思考が頭の中で渦巻く。防戦一方の状態で春子が追いかけて来てくれるとも思えない。二人で、姉さんを止めないと。