第9章 熱帯夜にシャンパンを/森鴎外
「やぁどうも、森さん」と声をかけてきた男性は、鴎外と同じかやや年下に見える。
鴎外はすぐに表情を引きしめたあと、その男に向かって能面のような笑みを浮かべた。
「久しぶりですね、お元気でした?」
「えぇまあ、お陰様で」
なんだか一触即発な雰囲気を感じ取った魅月は、シャンパングラスをボーイに預けた。
緩慢な仕草で両手を腹部に添えて姿勢を正すと、男はこちらに気がついたのか、ちらりと視線をよこした。
「おや、可愛らしいお嬢さんですね。森さん、もう少し守備範囲、下の方じゃありませんでしたっけ?」
顎に手を添え見定めるような男の目に、魅月はただニッコリと笑って過ごすしか無かった。
「彼女は私の優秀な秘書でね」
鴎外の声に、魅月はちらりと目線を上げてギョッとした。
彼の目に光はなく、人気のないところならこの男を切り捨てそうな目付きをしており、あまりにも怖かったのでつい視線をずらす。
「おっと、失礼。それにしてもお目が高いですねぇ森さん?一体どこでこんなに綺麗な女性を捕まえたのか…」
やれやれと首を振る男に、特にそれ以上言葉を発することなく、鴎外はため息を着くと魅月の手を躊躇いなく取った。
魅月は十分酒が入っていたが驚いたように鴎外の方を見たが、彼は気づいてないのか気づいてないふりをしているのか、こちらに目を合わせなかった。
だが、その柔和な笑みを浮かべる表情の中に、たったひとつだけ殺意を孕んだ鋭い目を見て、魅月は口を噤んだ。
「では、そろそろお暇させてもらうよ。君みたいな男と酒を交わすなら…あぁいや、君には全く同情するよ。せいぜいお1人で楽しんでくださいね」
さぁ行こうね、と魅月に優しく声を掛けたが彼女の手を掴む鴎外の力は強く、ついよろけてしまった。
彼はすかさず魅月の腰を支えて体制を整えてあげる。そして、先程話していた男を一瞥すると、ゆったりと歩き出した。