第6章 湯煙に紛れて/芥川龍之介
一通り、明日の準備を終えた。
しかし魅月は、忘れ物がないか今一度チェックをすると、またスーツケースの中を漁り出した。
相当楽しみなのかと、芥川は少しだけ顔をほころばせる。
「んー、旅行なんて久しぶりだからなあ…多分、これだけ持ってけば大丈夫だと思うけど」
広げた中身を見ながら、一つ、また一つとスーツケースに戻していく。
「もし何か足りなかったら、現地で調達するのも手だと思うが」
芥川の提案に、魅月はそっかー!と納得し、スーツケースの鍵を閉めた。
彼は、ちらりと自分の荷物を見やると、魅月の荷物より遥かに少ないことが少しばかり気にかかったが、仕方あるまいと思い直す。
旅行は楽しみだが、彼は一つ気がかりなことがあった。
夕餉の時に彼女が言っていた、「貸切風呂」のことだ。
芥川は風呂が嫌いだった。
家でシャワーを浴びる時は、もう慣れたものだったが、知らない土地で知らない風呂に入るのには物凄く抵抗があった。
以前、幹部たちと温泉旅行に行ったこともあったが、その時は中原が何とかするとか言ってくれたおかげで入る事が出来た。
しかし、今回もし何かよからぬことがあったものなら、魅月を守るのは自分しかいない。
何も無いことを願うべきだが、ついそう考えてしまう。
だが、魅月の楽しげな様子を見ていると、どうにかこの旅行を無事に終わらせなければと、つい意気込んでしまいそうだった。
荷物の前で座っている芥川に、すすすっと魅月は近づいた。
「どうしたの?難しい顔しちゃって。楽しみすぎて放心状態とか?」
こちらの不安も知らず、彼女は屈託のない笑みで芥川の顔を覗き込んだ。
いきなり距離が近づいて驚いたのか、彼は急に頬を紅潮させると、口元を押さえてそっぽを向いた。
「い、いや…なんでもない…」
そんな様子の彼を見て、魅月はふふっと笑う。
芥川の肩をそっと持ち、耳元に唇を寄せ、囁くように言った。
「明日、楽しみだね。龍之介」
「魅月さん…!」
今度は耳まで真っ赤に染める芥川に満足したらしく、悪戯をしたあとの子供のような顔をした。
今夜は眠れなさそうだ、と芥川は一人思った。