第85章 揺れる心と押す背中
宿に戻ると、疲労と汗と安堵が混じった空気が漂っていた。
それでも私の胸の奥にはずっと昼間の光景が引っかかっていた。
青八木くんの歩き方。
あの痛みを堪えるような足取り。
杞憂であってほしい。
そう思いながらも気づけば私は医療用バッグをひっくり返していた。
ありったけのテーピング、サポーター、アイシング材。
それから痛み止めを全部エコバッグに詰め込んで静まり返った廊下を足早に進む。
青八木くんの部屋の近くまで行くと、そこにはちょうど青八木くんと段竹くんの姿があった。
青八木くんは段竹くんにテーピングとマッサージを頼んでいるようだ。
「…あ」
私お姿を見つけた青八木くんが、一瞬だけ気まずそうに視線をそらした。
『膝…?』
問いかけると少し間を置いて
「…気づいていたのか」
とだけ返ってきた。
『そりゃ、気付くよ…痛み、結構あるの?』
その質問には答えず彼はただ息を吐いた。
黙っていても伝わる。
彼は相当無理をしている。
『それでも、明日走るんだよね…?』
顔を上げた彼の目に迷いはなかった。
「…あぁ」
その一言に胸が締め付けられた。
何も言えなかった。
彼がこのインターハイに憧れ、努力を続けてきたことを知っているから。
どんな正論を並べようと、きっと彼は走ることをやめないだろう。
私は静かにエコバッグを段竹くんに渡した。
『これ、全部持ってきた。テーピングと…痛み止めも。…後は頼んでいいかな?段竹くん』
段竹くんは頷き、真剣な目でそれを受け取った。
彼のほうが私よりずっと力もあり、経験者なこともありマッサージも手馴れているだろう。
任せるしかない。
『何かあったらすぐに連絡して』
そう言い残してその場を去った。
部屋に戻った瞬間、胸の奥でずっと押し殺していた不安が膨らむ。
どうか、明日の朝には少しでも痛みが引いていますように。
それだけを願いながら窓から夜空を見上げた。