第84章 届かない手のその先で
宿に着く頃にはすっかり夜の帳が降りていた。
玄関先の明かりに照らされて、影が長く伸びる。
バンから降りるとすぐに段竹くんとともに鏑木くんを部屋まで送る。
携帯を見ると幹からのメール。
ーーー洗濯物はあやちゃんと済ませたし、洗い物とかも杉元くんと1年生でやってくれたから、今日の作業は終わったよ!だから茉璃ちゃんも今日はゆっくり休んでね!
そのメールを見て私は深く息をつく。
やっと1日が終わった。
でも胸の奥ではまだ何かが静かに燃えている。
荷物を自室に置き、窓際のカーテンを少しだけ開けると、外には街灯の光が柔らかく揺れていた。
ーー裕介さん。
たった数秒の再会だったのに、あの瞳を思い出すだけで、呼吸が浅くなる。
手を伸ばせば届いた距離なのに、その一歩を踏み出せなかった。
マネージャーとして当然の判断だったはず。
わかってる。
だけど、心はそんなに割り切れない。
1年間離れていた時間。
1年前、図書館で過ごしたあの日々。
峰ヶ山で座って話したあの瞬間。
全部が今日あの駐車場で一瞬にして蘇った。
布団に腰を下ろしスマホの画面をそっと見つめる。
そこには”巻島裕介”の文字が表示されたまま。
指先が何度も送信ボタンの上で止まる。
今連絡をしたら、会いに来てくれるかもしれない。
でも、それを望むのはわがままだ。
裕介さんもきっと、私が”責任を選んだ”ことを理解してくれている。
「また連絡する」
あの言葉が耳の奥で優しく響く。
まるで”無理しなくていい”と言われたみたいで泣きそうになった。
私はスマホを伏せて布団に横たわる。
明日もレースは続く。
チームを支えるために、自分の心を整理しなきゃ。
それでも、瞼を閉じた後に浮かぶのは夕陽の中で微笑んだ裕介さんの姿だった。