第84章 届かない手のその先で
背を向けて歩き出した後も、背中に裕介さんの視線を感じていた。
その温もりのような気配が、風に混じって離れない。
会場の端に止まっていた寒咲さんのバンが、ハザードをつけて待っていた。
「おーい!こっちだ!」
窓から手を振る寒咲さんに軽く会釈をして、私たちは車に乗り込んだ。
ドアが閉まる音と同時に、エンジンの低い唸りが夜を震わせる。
涼しい風が窓の外を流れていった。
しばらく無言のまま、道路脇を流れる街灯の灯りをぼんやり眺めていると、後部座席から鏑木くんの声がした。
「…あの、さっきの、髪の毛すごい長くて緑の人いたじゃないっすか。あの人、誰っすか?」
前を向いたまま、ほんの少しだけ息を吸う。
言葉にするだけで胸の奥が疼くけれど、隠す必要もなかった。
『あー…えっと、私の彼氏。1年ぶりにイギリスから戻って来たの』
一瞬車内の空気が止まった。
バックミラー越しに寒咲さんの眉がピクリと動き、隣の段竹くんが「えっ」と声を漏らす。
鏑木くんは口を半開きにしたまま固まっていた。
「か、彼氏…!?あの人が?」
「え、えぇ!?」
慌てふためく2人の反応に思わず小さく笑ってしまう。
『そう…裕介さん』
その名前を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
窓の外には夜の街が流れていく。
車内は相変わらず賑やかなのに、私の心の中だけは静かだ。
宿の明かりが見えた頃、ようやく1日の終わりがやって来た。