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蝶と蜘蛛

第84章 届かない手のその先で


救護テントのビニールが風に揺れ、夕方の光が淡く中を照らしている。

中では鏑木くんが簡易ベッドに横たわり、額の汗がまくらに滲んでいる。
その姿に胸が締め付けられた。

『鏑木くん…』

声をかけると、かすかに眉が動き、ゆっくりと瞼が開く。

「…富永さん?」
『大丈夫?もうみんな宿に向かったんだけど、鏑木くんも行けそう?』

彼はしばらくぼんやりと天井を見上げ、それから小さく頷いた。

「…行けます」

けれど足取りは見るからに危うい。
段竹くんと顔を見合わせ、両側から鏑木くんの体を支えながら外へ出る。

風が熱を帯びた空気を優しく運んでいく。
テントを出て少し歩いたその先ーー
ふと視線の先に立つ一人の姿に息をのんだ。

夕陽を背に長く煌めく玉虫色の長髪。

『…裕介さん』

約1年ぶりの再会。
心の奥が一瞬で熱くなる。
駆け寄りたい。
触れたい。
”おかえり”と抱きしめたい。

でも、今私の腕の中にはふらつく鏑木くんの重みがある。
私はマネージャーだ。
この瞬間だけは、感情よりも役目を選ばなければいけない。

裕介さんも、きっとそれをわかっている。
それでも、彼の目の奥には同じ葛藤が宿っていた。
言葉にならない想いが、互いの間をすれ違っていく。

「久しぶり…ショ」

低く少し掠れた声が届く。
段竹くんと鏑木くんは顔を見合わせ不思議そうな顔をしている。

『おかえり、裕介さん』

やっとの思いで口にしたその言葉に、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

『でも、ごめん。今は話してる時間…ないや』

裕介さんの表情がほんの一瞬だけ寂しげに揺れた。
けれどすぐにいつもの表情に戻る。

「あぁ、わかってるショ。また連絡する」

その声に救われるように、私は小さく頷いた。
背を向け、再び鏑木くんの肩を支えながら歩き出す。

振り返ればきっと、涙がこぼれてしまうから。
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