第75章 最後の時間
玄関のドアが閉まる音がして家の中は一瞬で静まり返った。
蝉の声が遠くで続いているのに、不思議と空気が止まったような気がした。
「…行ったショ」
裕介さんがぽそりと呟く。
私は頷いて、何となく広いリビングの隅に座った。
テレビもつけず、窓から入る夏の夜風だけが肌を撫でる。
ほんの少し開けられたカーテンの向こうには街灯の光が揺れていた。
裕介さんはキッチンに行って冷蔵庫を開ける。
「これだろ、母さんが行ってたやつ」
そう言って取り出したのは小さなガラスの器に入った手作りのゼリー。
2つのスプーンを添えて、テーブルに置いた。
『なんか…変な感じですね』
「そうか?」
『こうして裕介さんの家に泊まるの、初めてだから』
「別に、そんなに特別なものでもないショ」
そう言いつつ裕介さんは目をそらしたまま、少し耳が赤くなっていた。
沈黙の中、スプーンと器のぶつかる音だけが静かに響く。
『…行く前に、こうして一緒にいられてよかった』
私がそうポツリと言うと裕介さんは少しだけ表情を緩めて、低い声で返した。
「俺もショ。…正直、心の準備、できてねぇショ。随分前からわかってたこのなのにな。」
そういった裕介さんの横顔が、いつもより遠く見えた。
でも次の瞬間、彼はそっと私の頭に手を置いた。
不器用なのに、その仕草だけはどこまでも優しくて
その夜、部屋の時計の音がやけに大きく聞こえた。