第1章 情事に至るまでの5つの場面
「よし」
「ハンカチ汚しちゃって」
「新しいの買えばいーじゃん」
「……もう」
しょうがないんだから、とでも言いたそうな顔をした氷雨は、オレの手からハンカチーフを抜き取るとオレの唇を軽く拭う。ああ、さっきキスしたときに付いたのか。「よし」ついさっきオレが言った台詞を真似して口にした氷雨は悪戯な少女のように笑った。頬を掌で撫でて、またキスをする。柔らかい唇がちゅうっと吸いついてきた。その気が出てきたかと思ったけど、やっぱべろちゅーは駄目らしくて拒まれる。ちぇ、かわいくねーの。唇を離してあからさまに不機嫌な表情をつくってやれば氷雨は困ったように眉尻を下げる。数秒の沈黙の末、先に口を開いたのは氷雨のほうだった。
「沢田さんに部屋用意してもらったから」
「…先に言えよ」
「ごめん。タイミング逃した」
「ったく…行こーぜ」
氷雨の手を引いて広間に入る。窓ガラス1枚分の境を呆気なく越えた。ベルベットの絨毯に足をつけることは驚くほど簡単だった。指先から掌から伝わってくる熱を確かめるように力を込める。窓の施錠を終えた氷雨は不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
「なんでもねーよ」
尚も不思議そうに首を傾げる氷雨を無視して歩き出す。この澱みを言葉にしてこいつに吐き出してしまうことはどうにも出来そうになかった。真っ暗な広間を突っ切って廊下に出ると薄い照明が辺りを照らしていた。もうすっかり他の奴らは寝入っているのか、酷く静かだ。氷雨が指し示した方向へ向かってまた歩き出す。
「なあ、」
「んー?」
「おまえはオレの女だろ」
「うん、そうだね」
逡巡もなくさらりと同意を示した氷雨は「ふふっ」と小さく笑い声を零した。前方に向けていた視線を隣に落とせば頬を緩ませて笑っている。幸せそうな笑顔、という言葉はこのことを言うんだろうか。生憎そーゆー表情とは無縁の生活をしてきたからオレにはよくわからない。そうだねと言っておきながら、こいつは明日になればまたボンゴレの一員として客人達の見送りでもするんだろう。にこやかな笑みを湛えて何でもない顔でどっかのクソオヤジ達に愛想を振り撒くのだ。あームカつく。こうなったら今日は足腰が立たなくなるまで攻め倒してやろう。氷雨はまだ笑っている。
【愛を確かめたくて】