第1章 情事に至るまでの5つの場面
日付が変わって漸く全ての客人が広間から出ていったところで、オレの任務も終わり。窮屈だったネクタイを緩めてスーツのボタンを外すと、少し肩が軽くなったような気がした。バルコニーに肘を付いて、もうこのままアジトに帰っちまうかなと考えていると、カツン、カツン、という足音が後方から聞こえてきたので振り返ってみる。窓を開けて、バルコニーに出てきたのは氷雨だった。
「お疲れ様、ベル」
「スゲー退屈だった」
「あはは、うん。そうだろうね」
おかしそうに笑いながら、オレの隣まで足を進めてきた氷雨は両腕を挙げて思いきり伸びをするとオレに向き直る。さっきまでの能面のような笑顔は消え失せて、いつもオレが見ている氷雨がそこにはいた。「氷雨」何とはなしに名前を呼んで艶のある髪に手を伸ばすと、真っ黒な瞳が穏やかに細められて「なあに、ベル」と聞き慣れた声がオレの名前を呼ぶ。ああ、オレの氷雨だ。
顔を寄せれば、オレの意図がわかっているかのように氷雨が目を閉じるから、少し気分が良くなった。真っ赤なルージュを引いた唇にオレのそれを重ねて軽く啄ばむ。気分が乗ってきて舌を入れてやろうとしたらきっちりと拒まれた。チッ。仕方なくそれだけで唇を離してやると僅かに蕩けた瞳と視線が合う。ゾクゾクと快感が背中を駆け上がった。この上なく支配欲が満たされる。こいつは、いま、オレしか見ていない。
髪を撫でる手を止めて氷雨の唇に指を這わせると真っ赤なルージュが指についた。
「色濃すぎじゃね」
「普通だと思うけど」
「似合ってねーよ」
「ベルはこういう色が嫌いだよね」
「わかってんじゃん」
「わかってるから普段つけないの」
「へえ、」
思わず口角を上げて笑うと、氷雨はちょっとだけ頬を赤くして照れたような顔をする。ふっくらとした唇から指を離して指先に付いたルージュを見てみたけど、やっぱり氷雨には似合わない色だと思った。胸ポケットに入れっぱなしにしていたハンカチーフでそれを拭い、ついでに氷雨の口もごしごしと拭いてやる。氷雨はビックリして抵抗してくるけど無駄。相手が誰だと思ってんのって感じだよ。手を退けると氷雨の唇から綺麗にルージュが落ちていた。妙な満足感を覚える。