第1章 みるく
ーーーコンコンーーー
さあもう一踏ん張りというところで、扉を叩く音が響いた。一瞬だけ扉に視線を向けたが、すぐ雄一は、PCの画面を見つめなおし、扉の向こうに立つ人物に声をかけた。
「……なに?」
なんだか、勢いを削がれたようで、すこし腹が立った。自分で思ったよりずっと、不機嫌な言い方になる。
「……雄一くん。……まだ、寝ないの?」
「ああ。」
控えめに扉が開き、その隙間から中をそっと覗くようにが顔を見せた。
「最近、ずっと遅いし、あんまり寝不足だと体に悪いよ?それに、たまにはさ、その……あのさ…一緒にベッドに行きたいなって……」
は、チェック柄のパジャマに、濃紺のカーディガンを羽織っていた。お風呂上がりの黒淵メガネの奥で瞳が揺れ、頬は赤く染まっている。しかし、そのときの雄一は、彼女の言葉のなかの「何か」を考える余裕がなかった。
雄一はその姿を一瞥しただけで、PCに目を向けたまま、指を忙しなく動かしては文字を打ち込んでいる。二人の間に、なんとも形容しがたい空気が澱んだ。
「…今忙しいから。先に寝てて。この前も、忙しいって説明したじゃん。それにーーー」
口にした瞬間に、言い過ぎたと思った。しかし、後に引けなくなってしまった雄一の口から、次々と言葉がこぼれ落ちた。仕事の1から10まですべてをに伝えることが今は大きなストレスであった。
お願いだから、もうしばらくの間、
放っておいて欲しかった。
部屋にはただ雄一の声だけが響いた。
「……雄一くん、邪魔してごめんね。」
少し涙ぐんでいるのか、の声は弱々しい。それにはっとして、ふとの顔を見る。は、困ったように目尻を下げて無理に笑っていた。
「言い過ぎた。ごめん。」
ひと言、そう告げるだけが精一杯だった。
ただ、様々なことがぐるぐるしている今の思考回路では何もうまく考えられない。慰めの言葉さえ思い浮かばない。その顔を見つめることしかできない。
こめかみがきんと痛んだ。
すると、は、それに答えるでもなく、ドアを開けっぱなしのまま、パタパタと廊下の奥に消えてしまった。