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ただのパンダのお引っ越し

第8章 飼主失格


「だからね、お金ないと、電車には乗れないの!」
「お金はないんだ。お金を使わないでカイシャに行くにはどうしたらいい?」
「カイシャってどこのカイシャ!?あのね、ここじゃそういうのはね、わかんないから!」

声のする方に目をやると、見慣れた男性の姿があった。

「…伊豆くん!?」
私が声を上げると、駅員さんに怒鳴られていた伊豆くんがこちらへ顔を向けた。

「桃浜!よかった…!忘れ物だ!届けに来たんだ!」
彼はペタペタと私に走り寄り、大きな封筒を掲げて見せた。私が家に置き忘れた会議資料。
駅員さんはヤレヤレといった顔で事務室内に帰っていった。

「大事なんだって言ってただろう?走って追いかけたんだが、間に合わなくてな。電車には乗れないし、はあ、ここで会えてよかった」
改札を区切る銀色の柵から、身を乗り出して手を伸ばす伊豆くん。
一方の私はまだちょっと事態が飲み込めていなくて、ポカンと口を開けながら、彼の差し出す封筒を受け取った。

フェンスの内にいる私と、外にいる伊豆くん。
ふと、私は目線を下げた。
伊豆くんはジャージに裸足で、足を真っ黒にしていた。

ハッと息をのんだ。
彼にまだ靴を買ってあげていなかった。
なんてことだろう。
ようやく、この時になってようやく、私はそのことを思い出したのだ。

伊豆くんは私の書類に気付いて、駅への道だって知らなかっただろうに、なんの連絡の取りようもない私を求めて、ここまで走ってくれた。
その彼に、私ときたら、靴を買ってあげることすら忘れていたのである。

「ごめん…」
「おいおいどうした、そんな顔するな。はやくカイシャに行ったほうがいいぞ」

伊豆くんはそう言って私の頭を撫でた。彼の大きな手はやたらと温かい。ぬくもりってこういうことなんだろう。

「ごめん…ごめんね。ありがとう」

行き交う人の視線と足音の中で、私は小さく呟いた。
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