第3章 覇道の一里塚 上篇
鎮西と丹波に一大基盤を築いている中浦家の娘である綾香でさえ、これ程の情報をこの短期間には得られなかった。北畠氏、特に西蓮寺が属する大河内御所は極めて情報戦に優れた能力を持つ。特に、陰謀に繋がるならば、どんな些細な事まで調べ上げる。それも、かなりの短期間で、だ。西蓮寺入道は大河内侍従具家の両翼の一つと見做されている人物であるから、特にこういう手合いには優れているのだ。
天変地異から一ヶ月が過ぎ、偶発的な戦闘は漸く収まり出した。しかし、取り敢えず畿内軍閥の県令以下役人達を武力で追い出した紀州総督府と伊勢守護北畠氏はそれ以後、畿内軍閥と戦火を直接交える事はなく、使節を送り合って県令の復帰の如何を交渉する程度であった。畿内軍閥は対立する東京政府との対決の為に、敷島の西国諸勢力と手を取り合おうとしていたが、京・二条に政庁を構える敷島共和国徳川政権と近江一帯を軍国化している幕府総本営が健在である以上、無闇に勧誘をするわけにも行かず、盟約は難航していた。特に、大河内御所を擁する北畠氏は共和国の動向を伺いつつ、畿内軍閥の次の手を見据えていた為、畿内軍閥を率いる豊臣秀国もそう簡単に動けなかった。
伊勢北畠氏の一門筆頭大河内御所の親類である西蓮寺入道統家こと大河内九郎統家は大河内御所の家督争いにおいて大河内侍従具家に敗れて出家していたが、具家与党の重臣に才覚を惜しまれて登用され、以降は侍従の有力被官となり、「大河内の黒き翼」と名を知られた。
その男が七宝院の高僧の一人として、本山の目の届く所に居る。
「実在する慧静僧正に成り済まそうだなんて、よく考えましたね。しかも、ご自身で」
綾香は再び〈紳士録〉に目を通しながら呟くように言った。
「彼は現在出羽に座主と共に居て、戻ってくる事は暫く無い」
それを利用した西蓮寺は浄土新教団「真教」の坊官としての立場で雇う僧兵20余りと侵入し、彼に暫し成り済ましているわけである。
「蝮殿が武田を上手く転がしてくれたものでね。騒ぎの間にも色々と調べられた。天恵を得たのだよ、我らは」
西蓮寺は幾分調子に乗っているようであった。話を聞きつつ、綾香は〈紳士録〉に目を遣っているばかりだったが、幾分気になる点があったのか顔をムクっと上げて西蓮寺を見据えた。
「蝮殿って…矢津備が来ているの?」